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実相寺・冬木 対談
[音楽・テレビ・映画]実相寺昭雄x冬木透 -1- 

林田直樹さんの企画した冬木透さんと実相寺昭雄の対談は「レコード藝術」2000年1月号(写真参照)に掲載されたが、ここでは同年3月の「ファンタスマ〜実相寺昭雄・映像と音楽の回廊」のパンフレットに基づき、ロング・バージョンを紹介する。

実相寺  あなたは突然大学の先生になっちゃった。クラシックのどういう先生に就いて、どういう道筋だったのか。なんでTBSにいたのか。そういうことを今まで、事あらたまって聞いたことがなかった。

 

冬木  TBSにいたのは偶然なんですよ。僕はエリザべ一トという広島の短大を出て、今は4年制の大学になったけれども、その1期だった。作曲をやっていて、2年で卒業して、あとは助手をやったり、専攻科へ行ったりしながら、もっと作曲の勉強を続けたいと思っていた。その広島へ教えに来ていた市場幸介さんという恩師が東京の方だったので、頼って出てきた。

この人が、今でいえばいわゆる劇伴の大家だったわけですよ。TBS──当時ラジオ東京と言っていた──の人脈の中に満州というのがーつあって、市場 先生は満州で、僕も満州。市場先生がTBSのラジオ、テレビの仕事を盛んにやっておられた。僕はその頃、4年制の大学の3年に編入して作曲の勉強をしたいと思って、先生を頼って出てきたんだけど、親は病身で無職だったから、自分で生活のことを考えなければいけなかった。

じゃ、TBSに入れと。TBSの当時の音楽資料課長が僕の朋友だから、そこでアルバイトしろ、資料課へ行けばスコアもあるし、レコードはあるし、勉 強できるだろう、アルバイトしながら大学へ行けということだった。そのつもりでTBSへ入ろうと思ったら、たまたまそのときに効果団の採用試験が あるから、それを受けろと。ただアルバイトで入るのではなくて、一応正規に入る格好になれるから。受かったら音楽資料課に引っ張ってやるという 課長の話だった。

じゃあと受けたわけだ。効果団なんてどんなことをやるんだろうと思っていたら、試験官が、効果団の大先輩の石川さん、石井さんという人たちが、 おまえ、1年でいいから効果をやらないかと言われて、「そうですね」と始めたわけ。1年経ったときに、面白いからこのまま続けると言って、そのまんまずっと効果団にいたんですよ。

 

実相寺  大学はどうしたわけ?

 

冬木  それを1年やって、2年目の春に国立の編入試験を受けて入った。月謝が安いから本当は芸大へ行きたかったんだけど、芸大は編入できない。1年から でないとだめだと言う。また4年間月謝を払うのはしんどいなと思って、しようがない、国立へ入った。

 

実相寺  国立音大へ編入したときは、仕事をやりながら作曲を学んだ。

 

冬木  そうそう。これは社内でも問題になった。あいつは学校へ行きながら仕事していると言われたし、学校でも出席が悪いということで問題になった。

夕方からTBSへ入るわけですよ。当時はまだVTRがないから、放送終了が12時ちょっと前で、夜中は放送がなかったから、翌る日の準備をして、夜中 の2時か3時頃託送で家へ帰る。当時国分寺に住んでいて、朝8時半に国立の大学へ行って、午前中の授業を受けて、午後はTBSへ行く。そういう毎日だっ た。

 

実相寺  国立にいるときはさすがに作曲のアルバイト、劇伴のアルバイトはしてなかったんでしよう?

 

冬木  1回だけしている。まだラジオに行っていた頃、ラジオの番組を一つやらないかと女のプロデューサー から言われて、やったことがある。

 

実相寺  そのときにはもう冬木透という名前でやっていたわけ?

 

冬木  そのときは名前はまだない。

 

実相寺  冬木透という名前はいつから使っていたんですか。

 

冬木  宮本さんの「鞍馬天狗」からです。

 

実相寺  僕が入社してADに就いた「屋根の下に夢がある」というホームドラマで、テーマ音楽は違う人だった けど、劇伴は全部あなただった。

 

冬木  そうそう。

 

実相寺  クラシックの番組も昔はあったし。TBSはその頃、東京交響楽団を事業部で応援していて、冠が付いていた。そういうものには関わってなかったんですか。

 

冬木  直接はなかった。効果は専らドラマのほうだから。冬木透という名前でつくったのは宮本さんの「鞍馬天狗」のとき。

 

実相寺  僕が入る前だ。

 

冬木  途中から、おまえやらないかと言われて、やったんだ。ところで、名前は本名を出すわけにいかないということになって、社内の人間だから。酒飲みながら一晩考えたのが「冬木透」という名前なんだ。

 

実相寺 「鞍馬天狗」のときは国立は卒業していた。

 

冬木  卒業していた。

 

実相寺  子どもの頃から作曲を志望していて、西洋古典、クラシックにはずっと惹かれていたわけですか。

 

冬木  親父が、昔のシェラーク盤のレコードを満州で何枚か持っていて、それは専らクラシックだった。ベ 一トーヴェンがあったり、ワーグナーがあったり、 大した数じゃないけど、それをもの心つく頃から聴かされていたから、音楽ってすごいなという気分があって、音楽をやりたいなあと3歳か4歳の頃思っていたのは覚えている。

 

実相寺  音楽をやりたいというと、最初は楽器に行くんじゃないの?

 

冬木  楽器をやりたかったけど、戦争中で、満州だし、 楽器はハーモニカぐらいしかないし、男の子が音楽をやるという雰囲気じやないから、面と向かっ て言いだせないでいたわけだ。でも、終戦になる前に何力月かピアノを習いに行ったことがある。学校の音楽の先生の家が近所だったから、習いに行きたいと言って、習ったことはある。その程度だ。

 

実相寺  親父さんは音楽に関係していたの?

 

冬木  医者だった。

 

実相寺  だから、SPがいっぱいあった。

 

冬木  まあ、ね。終戦後、高校1年のときに苦労して引き揚げてきて、そろそろ将来のことと言っているときに、親父はてっきり医者にしようと思っていたけど、「おれは音楽をやりたい」と言ったらえらい怒られて、それから3年ばかりロもきかなかった時期があった。

 

実相寺  作曲を真似事から始めたのはいつ頃なんですか。

 

冬木  中学の頃かな。中学は、僕は満州にいて終戦直後のどさくさだから、まともには行ってない。何もやることないから、真似事みたいなことをやっていた。 五線紙もないし、書き方もわからない。自分で釣糸を板の上に張って、お琴みたいなものをつくって弾いたり、そんな程度ですよ。

 

実相寺  満州は、朝比奈隆先生じゃないけど、亡命したロシアの人がいたり、そういう関係で音楽は日本より進んでいたんじゃないかと思うんだけど、子どものときにそういう音楽を聴いたことはあるわけ?

 

冬木  ないねえ。市場先生が当時満州で、新京放送で音楽をやっていた。森繁久彌さんがアナウンサーをやっていた時期で、宮本さんもその頃向こうへい たのかな。石川甫さんとか。その頃の話を、僕は後になって市場先生から聞いた。僕は小さな子どもだから、 全然関係のない世界だった。

 

実相寺  SPレコードは向こうへ置いてきちゃったわけだ。

 

冬木  もちろん。

 

実相寺  SPで聴いていたベートーヴェンは誰が振っていたの?

 

冬木  それは思いださないんだけど、テレフンケンだからワインガルトナーかなあと思ったり今していますよ。

 

実相寺  僕が一番好きだったのは、ベートーヴェンでいえば7番というシンフォニーで、家にアルバムがあって、それはメンゲルベルクだった。

 

冬木  メンゲルベルクかもしれない。

[音楽・テレビ・映画]実相寺昭雄x冬木透 -2- 

実相寺  本格的に作曲をし出したときには、これだけ劇伴をやるとは思ってなかったでしょう。

 

冬木  もちろん。

 

実相寺  どういうものを書きたいと思っていたわけ? シンフォニーを書きたい、室内楽を書きたい、いろいろあるでしょう。

 

冬木  あの頃は中学生、高校生だから、ベートーヴェンみたいな音楽家になりたいという感じだよね。

 

実相寺 こっちへ帰ってきてから、日比谷公会堂へ行ったり、音楽とは接していたわけ?

 

冬木  東京へ出てきてからは行きましたよ。乏しい小遣いの中から行った。ストラヴィンスキーがやってきてN響を振った演奏会は感激したね。日比谷公会堂 で自作を振った。忘れられない。

 

実相寺  全然知らないな。僕は子どものときに、ヒンデミットがウイーン•フイルを連れてきてやったのを日比谷に聴きに行った記憶がある。あの頃は、いろんな音楽が聴けなかったのが一気に戻って、わーッと。音楽だけじゃない。輸人されてなかった名画がうわーッと入ってきたり、子どもだからお金はないんだけど、消化不良を起こすぐらいいろいろ行きましたね。しかも、日比谷公会堂ぐらいしかなかった。

 

冬木 日比谷公会堂しかなかった。それと、僕は満州から帰ってくる前に1年問上海を経由しているんです。 その頃上海で映画を観た。

 その中に「カーネギーホール」という映画があった。これを観たときに僕はびっくりして、それまで考えられもしなかったような内容の映両で、日本に帰ってきてから何年か経ってまたそれが来て、観たけど、あれはちょっとした一つの体験だった。

 

実相寺 僕も日本では観たけど、あまりよく覚えてない。 「オーケストラの少女」とかあった。

 

冬木 ああいう音楽映画が何本か来た。

 

実相寺 ジャン・ルイ・バローがベルリオーズを演じた「幻想交響楽」という映両もあった。パガニーニの映画もあった。

 

冬木 あった。あれもジャン•ルイ•バロ一じやなかったかな。ヴァイオリニストの話で、「すすり泣き」?

 

実相寺 じゃない、「しのび泣き」。世に出られなかった天才ヴァイオリニストの話だ。いい映画だった。音楽映画じゃないけど、ヴァイオリニストの話で。懐かしいね。

 

冬木 懐かしいねえ。

 

実相寺 つぶちゃん───円谷一さん───とは、効果と演出という感じで知り合ったわけ?

 

冬木 そうそう。

 

実相寺 円谷プロ以前のもので一番最初に円谷一さんと音楽の仕事をやったのは何ですか。

 

冬木 たぶん、「おかあさん」かな。

 

実相寺 円谷さんが「おかあさん」なんてやっていた?

 

冬木 うん。岩崎さんが入っていて、初めて演出をやらされたことがあった。それがきっかけかな。

 

実相寺 ベートーヴェンのような曲を書きたいと思っていた人が、15秒とか、時には5秒とか、長くても1分10秒ぐらいのものをたくさん書かなきゃならないという状態になったときはどうだった?

 

冬木 市場先生から何となくそういうことは聞かされていたし、市場先生の仕事を覗いていて、こんなものかあという予備知識はあったから、そんなに違和感はなかったけど、実際にやってみろとやらされたときには戸惑ったよ。

 

実相寺 でも、独学ということはないでしょう。誰かの『管弦楽技法』を読んだり。

 

冬木 もちろん、それは予備知識がないと書けないから。

 

実相寺 あるいは、リムスキー・コルサコフのものを徹夜で勉強したとか、そういう技法は誰に一番影響を受けていますか。手習いというのは、何でも真似事から始めるでしよう。

 

冬木 一番最初に僕が勉強した、あるいは真似をしたスコアは《未完成》なんですよ。

 

実相寺 へぇー。

 

冬木  これが、《未完成》しかないんですよ。広島の田舎の学校の音楽部にたった1冊だけあったポケットスコアが《未完成》なんです。それがお手本だった。 その頃はなぜクラリネットが違う調なんだろうとか、移調楽器なんて知らない。わけわからなくて、クラリネットはこう書くのかと。教えてくれる先生もいないし、そういう具合だった。

 

実相寺  その頃、ポケットスコアは今みたいに自由に買えたり、手に入ったりしたんですか。

 

冬木 まだ少なかったです。でも、楽器屋へ行けばぼろぼろのわら半紙みたいな楽譜があって、ベートーヴェンのシンフォニーも5番と6番ぐらいはあったという時代で。

 なぜ6番を買ったかというと、N響が演奏旅行で来るとき、クルト・ウェスという、僕が生で聴いた最初のまともな指揮者だったんだけど、その人のプログラムの中に《田園》 が入っていたから、《田園》を少し勉強しようと、おれが初めて買ったスコアだよ。

 

実相寺  コンサートにもそのスコアを持っていって、見ていた。

 

冬木  持っていって、見たよ、暗い所で。

 

実相寺  昔はたくさんいたね、日比谷でも。

 

冬木  いた、いた。

 

実相寺  今みたいに、簡単にCDで聴いて勉強するわけにいかない。しかも、音楽会ではくり返しはやってくれないし、みんな真剣に聴いていたんだろうね。

 

冬木  必死ですよ。

 

実相寺  おれはその当時わからないから、キザな野郎だなと思っていた。

 ところで、前に伊福部昭先生と話していたら、伊福部先生が、特撮もので怪獣が出るから、いろいろ勉強をした、つまり普通のホームドラマでは音楽がうるさいというのはできないけど、イベールのとか、大シンフォニーのものが───特撮ものではできるじゃないですか。そういう面白さがあるということを聞いたことがある。

 

冬木  僕は伊福部さんのような意味では、最初に意識しなかったけど、実際に始めてからはそういうことは感じたね。こういう音楽にするといろんなことも実験できる、勉強できるなと思った。ただ、「セブン」の音楽のスタイルに関しては、最初に制作意図を円谷一さんから聞いたときに、これはかなりスケールの大きな表現ができなければいけないなということはまず感じた。楽器編成はクラシックの、というのはポピュラーじゃないという意味だけれども、オーケストラ編成が基本になって、いろんな楽器が使えてということを考えた。

[音楽・テレビ・映画]実相寺昭雄 x 冬木透 -3- 

実相寺  「ウルトラセブン」以前に、あなたはモーツァルトのこととかいろいろ言われて、僕も当時はモーツァルトおたくの時期もあったから、あなたにモーツァルトそのものも録音してもらったことがありますね、ディヴェルティメントなんかを。

 

冬木 そうだね。

 

実相寺  そういう意味では、パスティッシュというんじゃないけれども、そういうことにずいぶん影響されている感じがあるけれども、あなたはこういうものに モーツァルトを使うことを意識したのはどれぐらいからですか。僕が覚えているのは、フランスのアニエス・バルタの映画でモーツァルトのクラリネット・クインテットを使っていたものがあって、それと前後して、K467のピアノ•コンチェルトの2楽章の旋 律だけを「短くも美しく燃え」とかいう映画で使っていた。それに円谷一さんがいたく感動していて、こういう手のものもいる、いいよ、と言っていた記憶はある。たぶん、それと同じ時期だと思う。

 

冬木 そうかもしれないね。

 

実相寺 当時から僕は、あなたの透明感のある音が好きで、これ以前に、僕は途中で下されたけど、スタジオで「でっかく生きろ」をやって、あなたが全部音楽をやって。僕はあのテーマのマーチだけはいつかもう一回復活させたいと思っているんだけれども、そういうものの中にも非常に賑やかなもの、悪ふざけしているものと──僕はそういうものがわりと好きなんだけど──鬱じゃないけど非常に静かなところと、 そのコントラストのある音楽をあなたがつくるのが 僕は楽しみだった。そういう静かなものに近いものを何度もくり返して使った記憶もあるんです。あなたがつくってくれたモーツァルト風のものもずいぶん気にいって。

 

冬木  僕から言うと、あなたの撮った絵の中にそういう透明感を感じて、それに触発されてそういう音楽を書いたことは何回もある。

 

実相寺 「レモンのような女」もほとんどあなたと一緒にやっているんだけれども。

 

冬木 懐かしかったね。

 

実相寺  あの中で、学者か何かで、死んだ伊丹十三がやっている、もてない男が掏摸の岸恵子に向かって、仮想の疑似的な恋愛のときに、あなたが《魔笛》の20番のアリアの「恋人か女房が、いればいい」をテ一マとバリエーションのように楽器でやってくれた。ああいうことはほかの人に頼めないという感じが僕はあった。それがこの辺と密接に繋がっているんだけど。

 

冬木  そうだね。

 

実相寺  あなたにはモーツァルトのことをずいぶん教わりましたよ。素人に教えるというのは大変だけど、このレコードを聴けとか。

 

冬木 そんな意識は全然なかった。勝手なことをやっていたというよりは、むしろあなたから触発されて、こうしろと言われていた。

 

実相寺  そんなことはないです。

 

冬木  言葉でじゃなくて、絵でそう言われていたような気がする。

 

実相寺 どういう絵ができてくるかを予測しながら書くわけでしょう。

 

冬木 そう。

 

実相寺 でも、どんな絵が出てくるかは正確にはわからない。間尺も違うだろうし。問尺にある程度合うような形でつくっておくわけですか。どこかスポッと抜けるように、ということはないわけ?

 

冬木 それは出たとこ勝負だよ。そこまではできない。

 

実相寺 あなたは職人的な面もあるから、わりとそういうことをさ。

 

冬木 それはそのときそのときに考えるんだよ。あらかじめはできない。

 

実相寺 毎回毎回絵ができて、それを見て、音楽が付けられてというような幸せな状態じゃないでしょう。13本をまとめて全部、どんな監督のも音を70曲ぐらい録っちゃうわけじゃないの?

 

冬木 そう。でも、こういう——ウルトラセブンのような——シリーズの場合は、登場人物とか設定はほとんど変わらないわけだ。相手の怪獣がどんな怪獣になるか、ドラマの設定、ストーリーという部分では、もちろん一話一話全部違うけれども、「ウルトラ警備隊」「セブン」「ウルトラマン」とかは、出てくる歌のフォークは変わらない。その部分につける音楽はいっぱいある。それは大体こっちに任せてもらえるわけだ、よほど見当外れじゃない限り。監督さんがこだわるのは、今度出てくるあの役のあの女の子にこういう音楽をつけたいという部分じゃないですか。それはあらかじめわからない。そこは僕も困るよ。女の子が出てきたら毎回同じ音楽ではつまらないし。 例えばあなたのように、今度音楽を録るんだと、全然関係のない音楽のときにも録ったことがある。

 

実相寺 たしかあるね。

 

冬木 そういうことで何とか解決していくしかない。

苦しいのはそこの部分だね。

 

実相寺 「ウルトラセブン」をやっている頃は先生に

なっていたの?

 

冬木 なっていた。

 

実相寺 桐朋の先生になったのはいつだったですか。

 

冬木 僕は、昭和31年から37年まで、7年間TBSに

いたんです。

 

実相寺 そんなに早くやめた?

 

冬木 あなたのやめるちょっと前よ。

 

実相寺 僕はそれからまだだいぶいますよ。37年というと、

僕があなたと初めて劇伴の仕事を一緒にやった年です、

「おかあさん」で。

 

冬木 あと2〜3年してからです、桐朋に行ったのは。

 

実相寺 そのときは最初から作曲法を教えるということで行ったんですか。

 

冬木 最初から作曲を教えていた。作曲以外のものも教えたけど。その頃作曲を教えた人が今はもう大家になっていますよ。作曲家としてじゃなくて。

 

実相寺 いろんな面であなたに教わったという人に会う。 オーケストラの中でもいるし。その頃、作曲以外にどんなものを教えていたんですか。

 

冬木  作曲以外には、和声、和声以外の音楽理論。わりに自由な講座があって、例えばグレゴリアンチャン卜を教えたこともあるし、オルガンの音楽の歴史をやったこともあるし、バッハの作品ばかり取り上げたこともあるし、ベートーヴェンばかり取り上げたこともある。そういう分析、スコアを読んでいくような授業とか、いろいろですよ。

 

実相寺  それを週に何回ぐらいやっていたんですか、こういうことをしながら。先生がアルバイトをしているわけだから。

 

冬木  専任だったから、週に4日は少なくとも行っていた。

 

実相寺  じゃ、TBSを辞めざるを得ない。

 

冬木  行くという話が起こったのはTBSを辞めた後だけど。

おかあさん 「生きる」より
[音楽・テレビ・映画]実相寺昭雄 x 冬木透 -4- 完 

実相寺  あなたは効果音も専門家だったけど、効果音に関しては全然ロは出さなかったんですか。

 

冬木  いろいろ言ったよ、もっとこうしたらどうだろう、もっとこうしてみようよとか。一緒につくったことはある。

 

実相寺  最初のゴジラは、伊福部先生もそうだったらしい。音、怪獣の声は、コントラバスで弾いて、それをテ一プに録ってから先生がいろいろ。

 

冬木  僕は毎週スタジオへ入っていたし、特撮の撮影のときにもひまがあると覗いていたから、好き勝手に好きなことを言えて、ああでもないこうでもないといろんな人と言った。そういう意味では面白かったね。

 

実相寺  劇伴のことは、最近はいろんな作曲家の作品が出るようになったけど、学生に教えることはないんですか、アルバイトのしかたとか。

 

冬木  ないね。作曲科の学生は、最近はそういう仕事がないわけですよ。僕らはそういう仕事でアルバイトしながら生きてきたようなもので、勉強も音出しの現場で勉強してきたようなものだから、そういうチャンスが少なくなった今の学生はかわいそうだなと思って、そういう機会をつくってあげた。例えばNHKの仕事が何か来たときに若い連中を2〜3人集めて、議論しながらつくっていくのはどうですかと提案したり、そんな仕事も何回かやらせてもらったけど、そういう場が少なくなっちゃったからね。

 専らシンセサイザーで一人でやってという仕事が多くなった。

 

実相寺  昔の名を成した作曲家はみんな劇伴で食っていたものね。あの頃のTBSのドラマを見ると、錚々たる名前が音楽で出ていた。大山さんのドラマにしても、武満徹、問宮芳生、牧野由多可とか。

 

冬木  みんなそれで勉強し、それで食ったんだから。僕は恵まれた時代にいたんだなあと思いますよ。

 

実相寺 一番影響を受けた作曲家はいないの?ストラヴィンスキーの演奏会を聴きに行ったときに影響を受けたとか。

 

冬木 断片的にいろんな部分に絞っていくと、例えばストラヴィンスキーに楽器の使い方を教わったところもあるし、あるいは、ある種のドラマティック的な表現にワ一グナ一をお手本にしたところもあるし、いろいろですよ。

 

実相寺 ぼくが最初に長編の映画を撮ったときに、バッハの無伴奏のパルティ一夕か何かをつけてくれた。テ一マの最初のトップタイトルのところがそれだった。 ああいうものを発想するというのが面白いなあと思って。

 あれもたしか、新しくそのときに録ったんだよね。

 

冬木 そうだよ。あの映画は何だったっけ?

 

実相寺 「無常」だよ。

 

冬木 何年も経ってから、大学へ教えに来た若い人が

あるときに突然あの「無常」の話をして、「いや一、

あなたの「無常」を観たときにはびっくりしましたよ」

「何が?」「いや、バッハが出てきたときにはガーンと

殴られたような気がしました」と。そんなに思って観て

くれたのがいたんだと、うれしかった。

 

実相寺 既成の音楽を使ったときにあるツボにはまる

というのは一つの快感なんだろうね。

 

冬木 うん。はまると愉快だよね。

 

実相寺 あまりイメージが強い人には逆に危険なことが

ある。それは確かだ。そういう意味では音楽は、打合せ

するときに全部違うと同じように、なかなか絵と音は……。

実際に学校で教えたら面白いと思うけど。

 

冬木 そうねえ。

 

実相寺 ただ、一つのパターンはないからね。

 

冬木 そうなんだよ。それが体系化できるかどうかが問題だ、体系づけられるかどうかが。

 

***

 

実相寺 確かに、時代は変わっているんだけれども、この「ウルトラセブン」の音楽は相当残ると思いますよ。

 

冬木 何人もの監督さんが監督しているわけだけど、こんなに限られた音楽しかなくて、でも、それぞれみんな個性が出るんだなあと、見ていて感心することがある。最近見てないけれども、今思うと……。演出というのはすごいものだなあと思う。同じように音楽を使っていて、不自由していても。

 

実相寺 あの頃、劇伴を頼むときに用語があって、例えばテーマ。ドラマ全体に関わるタイトルバックが流れるところにドラマ全体の性格を音楽が補足する形でテーマ音楽が必ずあって、それに歌が付くことがある。劇伴としては、シーンの初めにまずイントロがある。それから、コンマというのがある。タッチみたいなもので、3秒とか。何か物を落として、コローンとするものもあるし。あるシーンとシーンを転換するときのブリッジ。それとコーダ。これだけをディレクターから習う。これが僕はよくわからなかった。その当時の言葉はまだ何かありますか。3秒のものをどうやって作曲するんだろうと思っていた。

 

冬木  そんなものでしょう。あとは秒数が伝えてくれるから、この泣きは1分、2分とかいう言い方で。

 

実相寺  あと、MEというのもあった。音楽で表現するサウンド、効果音。

 

冬木  音楽というよりは、音、みたいな。

 

実相寺  映画のときには、パルティ一夕でも全部録ったじゃないですか。あなたと一緒に、ヴィヴァルディの《四季》を全部録ってもらったこともある。映画でもし、レコードを援用すると莫大な金がかかる。テレビは、今は知らないけど、音楽著作権課にこれだけ使ったと出しておくと、それで通用した。今は遠うんだろうね。

 あの頃は、レコード資料室にあれだけレコードがあったことは、そのレコードを使って申告してお ばいいということだから、誰でもレコードを使っていた。

 

冬木 ニュースに盛んに使っていた。ニュースは、当時全部LPですよ。

 

実相寺  特に、内閣改造なんかがあると必ず《カルミナ•ブラーナ》が流れたり。その音楽を当てるのがまた実に上手なんだ。あれは生でやっているんだから。

 

冬木 今はなくなったけど、東宝系の新日本映画社で記録映画をつくっていて、何本も記録映画の仕事をさせてもらったけど、それこそ仕上げのときは徹夜で、 一生懸命書いて、録音して、合わないところが出てくる。そうすると、選曲の人が手持ちのLPを持ってきて入れかえてくれる。これが合うんだな。はあ一、こんな曲があるのかと落ち込んだよ。

 

実相寺  専門に選曲の人がTBSでもいましたね。

 

冬木  いましたよ。

 

実相寺 その人に頼むと、ここのときにこれをかけなさいと持ってきてくれる。

 

冬木  短い、20秒ぐらいのところでもヒョッと拾いだしてやるんだ。すごいよ。

 

実相寺  ウルトラセブンのCDでホルンを使っているのがあったね。

 

冬木  いっぱいありますよ。

 

実相寺  特に、宇宙的な広がりを表現する描写的な音楽のところで、あった。あれはなかなかよかった。あれをなんで僕は使わなかったんだろうと思う。

 

冬木  そういうシーンがなかったんじゃないのか。

 

実相寺  そんなことはないですよ。もう一回まじめに聴き直して、自分で入れ直してみるかな。

 

冬木 それも面白いかもしれない。

 

実相寺  この中に、当時の現代音楽と言われていた音楽の雰囲気もちょっと感じたんですけど、作曲家としてはその時代の現代音楽も意識していらっしゃったのかなと思ったんですが。

 

冬木 そういう意識というよりは、これをどう表現しようということですよ。どうしたら一番的確に表現できるかという。だから、いろんなことをやるんです。

 

実相寺  電子音楽、シュトックハウゼンとかにはあまり影響は受けなかったの?当時、勉強している頃は一番盛んだったでしよう。

 

冬木  勉強しなくはないけれども、これは少し違うなと思った部分はある。特にアコースティックな楽器と一緒にやるときには、それなりの時問と手間をかけてやれば、例えば地球と違う世界を表現するというときはいいけれども、それも大変な作業だからね。 僕は、それはやらなかったわけじゃない。ローランドが始めたばかりのときに、まだシンセサイザーが普及する前にローランドのスタジオへ行って、全部いじらせてもらったことがある。それは発信機から操作しなきゃ音が出てこないような段階だから、これは大変だなあ、発展性は感じるけれども、オルガンのようなイメージでやったらどうだろうと。パイブオルガンがストップをいっぱい持っていて音を耝み合わせるでしよう。そしたらなんと、当時の技術部長──その後重役になったけれども──が「私は芸大のオルガン科を出ているんです。おっしゃるとおりのことをイメージしているんだ」「やっぱりそうですか」と話したことはある。それは最初期ですよ。 そのうちにだんだん楽になってきて、何でもできるようになって、ほかの仕事ではいろいろやった。

 

実相寺 シンセサイザーはずいぶん使いましたか。

 

冬木 使ったよ。

 

実相寺 「帰ってきたウルトラマン」頃からですか。

 

冬木 このシリーズでは使わなかった。このシリーズではスタートがスタートだったから、むしろアコースティックに限定した。一つには、「セブン」を最初やって、その頃にはそんな意識はなかったけど、シンセサイザ一もまだ発展途上だからどうなるかわからない。そういうものは時代性というものが出すぎちゃうような気がした。それを使ったときに、その作品はその当時の表現であって、今はもうやらないことみたいなものを残していくわけで、そういう点ではクラシックな編成はある程度普遍的なものを持っているでしよう。例えば、流行歌が1曲入っているだけでその時代がわかる。そういうふうになるのはまずいんじやないかという気はあった、後のほうでは。

 

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