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   Akio   Jissoji

 実相寺 昭雄  じっそうじあきお

 

 昭和12(1937)年3月29日生まれ。東京出身。中国青島にて育つ。青島における幼少時の友人、故・金森 馨(舞台美術家)の影響で、現在の仕事に入る。暁星学園、早稲田大学を経て、TBSテレビ(当時のラジオ東京テレビ)入社。約10年在籍の後フリー。昭和36(1961)年の、「歌う佐川ミツオ・ショー」でディレクターとなる。

 TBS時代は音楽とドラマの両方で、ディレクターを体験するが、昭和38(1963)年暮れの日劇中継「美空ひばり」で降格となり、映画部へ転出。テレビ映画の社外出向監督となる。テレビ映画時代の作品に、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」等。

 昭和45(1970)年のATG映画「無常」自主製作を機に、TBS退社。以降、ATG提携作品に、「曼陀羅」「哥」「あさき夢みし」等。昭和52(1977)年公開の「歌麿・夢と知りせば」から10年間は映画の空白期。「帝都物語」にて復活。その間はCM、執筆、テレビ、等々の仕事で糊口をしのぐ。

 音楽が幼い頃から趣味だったが、昭和60(1985)年のコンサート・オペラ「ヴォツェック」にて、テレビ以外の音楽関係の仕事を始める。以後、数多くのコンサートを手伝う。

 とにかく、アダルトビデオから題字、挿画、ポルノ小説、等々雑多な仕事をし、何とか業界で生き残っている。しかし、どれを取っても中途半端で、鵺のような感じがあるのは否めない。ただし、コンサートのライブ収録は得意である。最近の収録は「小澤征爾とウィーンフィル」朝比奈隆「チャイコフスキー悲愴」「ブルックナー自選集」等々。クラシック収録が少ない業界では、NHK以外で最も数多くの全曲収録をしているディレクターである。ただし、この業界で還暦も近いのに、中継車にのるディレクターは皆無。演出者の中では、珍品に属するか?

​ ずばり言えば、熟慮するタイプではなく、直感で処理をする臨機応変型。撮影等もひどく速い。怠け者でもあり、本当は面倒な仕事をしたくないタイプである。外国語は不得意で、辛うじて簡単な対話が通ずるのは、フランス語のみである。唯一、暁星の遺産だろうか。しかし、藤原良経、源実朝を尊敬する三十一文字派なので、外国語を嫌いなことに、間違いないだろう。

 以上は本人が50歳代後半に書いた略歴である。以下、それを補うかたちで略歴を記す。

 父・崇文、母・英子の長男として生まれる。兄弟はなし。母方の祖父は海軍大将・長谷川清。

 昭和14(1939)年、外交官だった父の転勤にともない、青島に移住。昭和18(1943)年、青島市の国民第一小学校に入学するが、ほどなく父の転勤で東京に戻り暁星小学校に転入。一家は滝野川に住む。昭和19(1944)年、父が中国張家口に転勤、そこで終戦を迎える。北京、天津と移動し塘沽より乗船、長崎県の南風崎に着く。ふたたび東京の暁星学園に転入、高校卒業までそこに学ぶ。戦後の混乱期を代々木大山町、鎌倉、大井出石町と移り住み、昭和27(1952)年、鵜の木に落ち着く。

 昭和30(1955)年、早稲田大学第一文学部に入学。フランス文学を専攻。在学中は映画研究会に所属。三年のときに外務省一等書記官試験に合格、昼間は研修があるため、夜間の第二文学部に転部する。

 昭和34(1959)年、TBS入社。昭和39(1964)年、女優・原知佐子と結婚。昭和42(1967)年、長女・吾子誕生。

 フリーとなってからは(株)コダイに参加する。

 昭和61年頃までの仕事は「私の作品目録」に記録されているが、それ以降の主な仕事としては、映画「ウルトラQザ・ムービー 星の伝説」「屋根裏の散歩者」「D坂の殺人事件」「姑獲鳥の夏」ほか。オペラ演出「カルミナ・ブラーナ」「魔笛」「カルメン」ほか。テレビ「ウルトラマンティガ」「ウルトラマンマックス」ほか。著書「チェレスタは星のまたたき」「ナメてかかれ」「昭和電車少年」「ウルトラマン誕生」ほか。

 平成7年から東京藝術大学音楽学部で教えるようになり、平成16年退官、名誉教授となる。

 

 平成18年11月29日、順天堂大学病院にて死去。12月2日文京区の麟祥院で告別式が執り行われた。

​菩提寺の柱に巣食う虫となれ       

 実相寺昭雄       

調布映画祭2003にて -
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対談/実相寺昭雄×寺田農

調布映画祭2003年 

実相寺昭雄回顧展(川崎市市民ミュージアム 2011)に盟友寺田農さんが寄せたコメント 

TBS演出部時代の実相寺昭雄

実相寺昭雄の命日に寄せて

無二の親友、並木章さんから

届いた一文を掲載する。

      ▽ 

命日に寄せて

 台風の為、早慶戦が一日延びたというので思い立って神宮に行ってきた。結果は慶応の7シーズン振りの優勝とかで、「都の西北」を聞きながら母校の情けなさに腹が立ち、何故か大隈重信と福沢諭吉を思い、ついでに実相寺を思い出して渋谷に回り鳩居堂で線香を買って、実相寺宅に送ってきた。

 何故大隈重信と福沢諭吉から実相寺に連想が及んだかについては少々説明が要るだろうが、実はこれは彼の父祖の地が大分であり私が佐賀の出身という事に由来する。実相寺とは両県の優劣を巡って40余年戯れ合ってきたが、常々「お前は大分の出であるから本来は慶応に行くべきだったのに、早稲田に来たのは佐賀に憧れての故に違いない。ならば俺の前では一歩下がって謙虚であるべし」というのが何時も私の決まり文句で、内心彼は悔しかったのだろう。この劣等感が彼をして数々の小説の中で私を不当にも好色なTVプロデューサーに仕立てて復讐を図ったのだと、30年も経って木枯らしの吹く早慶戦を見ている最中にやっと思い至った。

​ ついでに言えば今年「佐賀早稲田」が甲子園に出場した。一勝すれば史上初めて甲子園に「都の西北」が流れるはずだったが惜しくも初戦敗退、夢は実現しなかった。しかし大分代表は幾ら勝っても「都の西北」は歌えない。この決定的な差に地獄の釜の中で実相寺は悔し涙を流しているに違いない。因みに私の母校は2度甲子園に出ているが、「暁星」は出ていない。

 TBS入社当時演出部に「ディレクターズ」というチームがあり、互いにそのユニフォームを着た間柄を思い出し一言申し上げた次第。

 3回忌、7回忌で実相寺が如何に閻魔大王を誑かして多くの美悪女を弄んでいるかを申し上げた事を出席者の中に覚えて居られる向きもあると思う。が、あれは実話である。これは地獄からこの世に出張してきたという者から直接聞いた話だ。彼が申すには京都のさる寺(名前は忘れたが先日テレビでも映していた)の裏庭に井戸があり、地獄への通り道になっている由。ただそこを往来するには己が悪人という手形が必要との事である。そう言えば生前実相寺がしょっちゅう京都に行っていたのは、その井戸を通って閻魔大王にコネを付けに行ったのだ。私にそこを通って実相寺に会いに行ってくればと言う人がいるが、私には善人の手形しかないし、極楽から近々お越し頂きたいと招請を受けてもいるので、そのような悪の誘いには乗らないようにしている。

 命日を迎えるに当たって懐かしさの余り実相寺にささやかなオマージュを捧げる次第。

 平成29年11月 善の伝道者 並木 章   

NAMIKI
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