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続・続・私のテレビジョン年譜

この年譜を書くことを、呑みがてら話したら、

 

「何故"テレビジョン年譜”なんて題で、書き続けるのだ。もう、あまりテレビの仕事もしてないだろうが、• • •」

 と編集者の友人にいわれた。(最初の年譜は「闇への憧れ」(創世紀刊)に書いた。その続きは「夜ごとの円盤」(大和書房刊)に付けた) 

 でも実際には、この平成十二年の正月にも、わたしは中継車に乗っている。小澤征爾さんが指揮するサイトウキネン「マーラー第二番 〈復活〉」の収録のためである。耄碌したわたしのカメラ割りを手伝ってくれる中村由利に、かなりの部分を負っているが、依頼される仕事は、放送にもからむビデオ収録が一番多い。だから、テレビジョンを基にした年譜でいい、と思つている。

 しかも、自分ではまだテレビの中継や、特撮ものに、色気たっぷりである。もちろん、それ以外のドラマとか、色物でも、頼まれれば、尻尾をふるだろう。

 

【昭和六十二年】1987

 

 この年は「帝都物語」で久々に映画へ復帰したことを、以前の分(単行本「夜ごとの円盤」収載分)に書いた。映画の仕事はたのしかったが、 それほど意気込まずに取り組めた。スケジュールも延びなかった。七月十一日にインし、十月七日に小物を入れてアップしている。ハイビジョンを使った部分もかなりある。

 記憶ではもっと前だと思っていたが、この年に青木真次さんの依頼による「月の林に星の月」なる小説を、出版している。

 この小説は、後にテレビドラマ化され、おいしい思いをさせてもらった。この小説の副主人公に、親友の並木章をフィクション化して登場させた。勿論、小説の中では“並本章”と名前を変えてあるし、当人から感謝されて然るべきなのだ。だが並木は「告訴する」とか「モデル料は高いぞ」などと息まくのである。友情もわからぬ恩知らずの発言、とわたしは取りあわなかった。むしろ、「取り上げて頂きありがとうございます」と、酒の一本でも、わたしに送ってほしかった。

 テレビドラマは、並木が横槍を入れ、自分がモデルの役を脚本から削らせた。それで、コクがなくなった。特撮ものに入れ込む、単細胞な若い監督の話になったからだ。世間的には評判がよかったようだ。視聴率が免罪符だから、それはそれでいい。でも、「俺の役に中井貴一か、田原俊彦がキャステイングされるならいい」と、並木がホザいていたらしいことを、後で編成の友人から聞いた。開いたロがふさがらない、とはこのことだ。わたしは並木の役は、柄から択ぶなら、昔よく見たピーター•ローレのような俳優だ、と思っていた。もっとも、名優に過ぎるか。

 この年には永井路子先生の文春文庫版「相模のもののふたち」の装画もやらせていただいている。

 キャスリーン•バトルが来日し、人見記念講堂でのリサイタルを収録した。525とハイビジョンの両方であった。でも、彼女がかなりビッグな態度になっていて、最初にCFを撮った折り、へンデルのオぺラ「セルセ」のアリア"オンブラ•マイ•フ"(なつかしい木陰)を歌ったときの清新さは、かき消えていた。

【昭和六十三年】1988

 

「帝都物語」が封切られた年で、新春早々から劇場挨拶に北から南へ回った記憶がある。この劇場挨拶というのは、わたしに馴染まない。わたしが貧弱な顔を晒して、宣伝になると思えないからだ。

 久々に昨年映画へ復帰させてもらったせいか、この年は結構忙しく、充実していた年でもあった。

 たて続けに映画を撮る機会に恵まれた。ロッポニカの「悪徳の栄え」である。実は「帝都」の第一稿を書いてくださったのは劇作家の岸田理生さんである。それが実らなかったので、今度は岸田さんに依頼した。結果は、帝都物語裏面史のような、期待通りの脚本が出来あがった。

 R指定で撮ってほしい、とプロデュース側にいわれ、審査を問題なく通るように仕上げた。映倫とのチャンバラはなかった。

 まったく世の中には無視されたが、この映画は後の乱歩やら、岸田さんとのおつき合いにつながる接点になった。今回のイヴェン卜(*ファンタスマ)で、岸田さんに協力していただけたのも、こんな積み重ねだろう、と思っている。「青い沼の女」以来の実りだった。

 この年、個人的に大きな比重を占めた仕事は、翌年にまでまたがった、朝比奈隆先生と新日フイルによる「ベートーヴェン交響曲全集」の収録の開始である。当時の新日フイルを牛耳っていた松原千代繁さんとの交友から、この仕事は生まれたのだ。ただ感謝。

 舞台作品では、小澤征爾さんと新日フイルで「カルミナ•ブラ—ナ」をやっている。劇場は東京文化会館他である。

 台本は大岡信さんにお願いした。

 語りの平幹二朗さんが高所恐怖症ではないのをいいことに、かなり大がかりに工事現場のような足場を唐見博さんに組んでもらった。高所を跳び跳ねつつ、平さんの語りはすばらしかった。その結果についちゃ、個人的には大満足。

 コンサートでは岡村喬生さんの仕事をお手伝いした。これも新日フィルの依頼である。サントリーホールでの特別演奏会だったが、「ボリス」の戴冠の場面で、岡村さんの頭に冠が載せられた瞬間に、コロリンと下に落ちてしまった。晋友会の人が咄嗟の判断で拾い上げ、ほどよいときに載せてくれた。

 会場で聴いていた知りあいの音楽家に、

「いやあ、あれはボリスの行く末を象徴し、暗示していて最高によかった。絶妙なタイミングだった」

 と、手を握られた。そんなこと考えてもいなかったので、わたしはニヤニヤするばかりだった。

 昭和も終わろうかという年に、青春時代の最後を飾った「ウルトラマン」を撮影した撮影所“東宝ビルト”を訪ねている。ビデオ化される「ウルトラマン」映画につけるオマケを撮影するためである。十分足らずのオマケだったが、美術の池谷、光学の中野をはじめ、数人のスタッフと過去を懐かしんだ。「夢の跡」というタイトルである。

 科特隊の本部があったステージを覗いて、その狭さにあらためておどろいた。倉庫になっていた。

 何の関係もないが、その編集をしている頃、十二日間断酒している。 

 この年には、「夜ごとの円盤」という題で、大和書房の青木真次さんが、エッセイ集をまとめてくれた。永井路子先生の「歴史のねむる里へ」の装画もやっている。

 このころから河崎実とも付き合いができて、「地球少女イコちゃん」の監修などをしている。そう、キャスリーン•バトルCMの三作目もこの年のことだ。これが最後になった。彼女は更にわがままになっていった。遠くへ出向くのは嫌だといい、ブルックリンの劇場で、彼女の分を撮り、実景部分だけを フィレンツェ近郊にロケした。

 そのフイレンツェロケの帰途、わたしはパリへ回り、日テレ「追跡/君の名は」編に使う岸恵子さんのインタビューを録った。

 「追跡」はじまって以来最低の視聴率で、プロデューサーの石川一彦さんに、

「酒は一緒に呑んでも、仕事は別々にしよう」

 と、ニッコリされた。

 晩秋に、はじめてのアダルトビデオを撮影した。本も自分で書いた。「アリエッタ」という。九鬼のオーナー中川徳章さんが物好きだったのだ。面接で、加賀恵子という女優さんに、一目惚れした。こんな自然体の女はいないだろう、と思った。尚、音楽は淡海梧郎さんである。ピアノー台。

 中川さんとの縁は、その年の夏ごろ、"土佐の黒沢"などと喧伝され裏ものを専業にしていた御仁が、九鬼のアダルトビデオに挑戦することになったのが、キッヵケである。

「風立ちぬ」というタイトルの題字と監修を、版元の中川さんに頼まれたからである。土佐は女房の故郷で、その人とはむかし、義兄がちよっと知り合いだったという、不思議な縁もあった。

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悪徳の栄え

【昭和六十四年は短く、平成元年となる】1989

 

 一月七日、聖上崩御。

 昭和が終わりを告げたた夜、わたしは東京文化の小ホールで、しんみりしていた。拍手なきコンサートの体験である。松下功さんが作曲した 「悪徳の栄え」用に書かれた音楽が、チェロの安田謙一郎さんのリサイタルで取り上げられたのである。オリヴィエ•メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」と同じ楽器編成で、何かそのことでも象徴的な一夜だった。

 この日の日記から一部抜粋する。

 〈昼頃、テレビをつけて聖上崩御を知る。ついに、その日が訪れたわけだ。今日で昭和は終わった。新しい年号は”平成”と、二時過ぎに発表があつた。平成とは史記の地平天成からとったという。何となくふやけた平和の“平”という字が入るのじゃないか、と予感したことが当たった。書き難い字なので、ちよつと憂鬱。三時すぎに車で家を出て上野へ。高速道路の掲示板に、皇居付近の“一般道路渋滞” とあったが、街には崩御の重苦しさはない。• • •〉

 昭和の終わりついでにいえば、テレビ朝日特番の「昭和と私」という題字を書いている。こういう仕事を引き受けるとは、図々しい身の程知らず、という感じもする。

 音楽関係の仕事は充実していた。新日フィルでは、手塚幸紀氏指揮のラヴェル「スペインの時」をやり、東響から、小泉和裕氏指揮のバルトーク「青ひげ公の城」の仕事を頂戴した。両方とも、コンサート形式が基本だが、近年の本舞台ものより、大がかりなセットを組めた。いまや、夢のようだ。

 そして、セゾン劇場のミュージック•トゥデイでは、武満徹さんに、マーク•ナイクルグの「薔薇の向こうに」という、シアター•ミュージックを演出する機会をもらった。指揮は天沼裕子さんである。主演の石橋蓮司氏には仰天した。音楽は苦手だ、などとボヤきながら、全曲を暗譜しちゃったからである。感嘆のあまり、演出する必要もなくなったのである。天沼さんとは今年(*平成十二年)の二期会「魔笛」公演で、ふたたびご一緒している。

 と、充実していた年なのだが、薫風の季節に、作家の阿部昭が突然に他界して、気持ちに空洞が開いたことを思い出す。

 JOKR (現在のTBS)入社同期で、同人雑誌「新人壇」の仲間になった共通の過去があったからだ。その同人誌に書いた彼の生原稿を見て、わたしはもの書きになることをあきらめた。

 電話や葉書のやりとりを別にすれば、昭和六十年にやったオペラ「ヴォツェック」に招待した折り、ハネてから裏を訪ねてくれたのが、最後に顔を見た機会になってしまった。(阿部昭とのことは、講談社文庫「太いなる日/司令の休暇」に少し書かせて貰っている)

 五月二十日の日記の、一部。

〈午前十一時、Nからの電話で目を覚ます。新聞を開くと、阿部昭の訃報がのっていて、ただおどろく。五十四才とか。随分心臓がわるかったんだなあ、と唇を噛む。毎年オペラに来てくれていて、今年の「スペインの時」にも招待したが、病み上がりで行けず残念、という返事をもらった矢先だった。冥福を祈ることの何という空しさ。・・・〉

 たしか、この夏に二作目のアダルト「ラ•ヴァルス」を作っている。“薮の中”風の展開で、強姦事件の虚と実の狭間を描いたものだ。寺田さんに弁護士の役を頼んだ。山本竜二さんの被害者役がとてもよかった。

 これは「アリエッタ」同様、実話を元にしたアダルトである。こんなんじゃヌケない、という批評が多かった。お恥ずかしい。

 そして、年末ギリギリに「ウルトラQザ・ムービー/星の伝説」という映画のクランクインをした。この映画の成り立ちがすごい。

 円谷粲君が、企画を持ち込んで来たのが、十月ごろだった。それから、 佐々木守氏に連絡を取り、急遽シナリオを上げ、撮影にこぎつけたのである。とにかく、理由は忘れてしまったが、完成させねばならない周囲とのしがらみがあったのだろう。もちろん、年内に撮影した分はわずかなもので、大半は翌年に持ち越した。

【平成二年】1990

 

「ウルトラQ・ザ・厶—ビー」のロケは寒かった。丹後半島へ行ったときがそのピークだった。九州の唐津近辺でもロケをした。とにかく、セットを作る余裕がなかったのだ。セットがないから、国際放映のスタッフルームへも、行ったことがない。オールスタッフはどこでやったのだろう?転々とロケをしていたし、その間特撮班が同時進行していたので、顔を出す用もなかった。

 この映画でロケした東京や近郊の場所は、その後大きく様変わりをしている。とりわけTBSの旧テレビ局舎は、煙と消えてしまった。この映画に、自分が青春を送った演出部やら廊下やらをフィルムに刻めたことが、個人的には思い出になっている。

 小澤征爾さんが、新日フィルでへネシーオペラシリーズを始め、その第一作目がモーツァルトの「イドメネオ」だった。その演出をやらせてもらったが、一夜ブーイングが出た。

「ポネルのように、ブーの方向へ投げキッスをしろ!」

 と、外人の歌手たちにいわれたが、いやどうも、と頭をかくばかりだった。外人キャストの来日から本番迄は十日足らず、ひどく忙しかったが、たのしい仕事だった。

 この年はほとんど、音楽の仕事で終始している。収録は、朝比奈先生と新日フィル「ブラームス・チクルス」につきる。

 舞台で忘れられないのが、山田一雄先生との「ダヴィデ王」である。 語り手は、仲良しの寺田農さんである。農ちゃんには、音楽の語りをかなりの数、世話になっている。

 本番では上手のドライアイスが出すぎ、中低弦のオケの連中から食ってかかられた。

「楽譜が見えなくちゃ、しょうがねえだろう!」

 舞台監督の小栗哲家氏が、

「裏方にきちんとした準備の時間を寄越さねえからだ!」

 と、身体を張ってくれて、何とか事はおさまった。小栗さん、というと他人行儀か。小栗ちやんとは、昭和六十年にやった「ヴォツエック」以来の縁である。

 即位の礼の折り、丁度山田先生の「ダヴィデ王」ゲネプロの日、フジテレビのパレード中継に、生で祝典曲をインサートすることになった。 エルガーの「威風堂々」を山田先生が指揮されることになったのだ。ゲネプロを一日中断し、演出が中継車へ駆けつけインカムをつける、な〜んてテンヤワンヤを、忘れられない。

 ついでにいえば、ベルリンの壁崩壊記念の「第九」 収録のカメラ割りと題字を渡した記憶もある。稲塚君の依頼で、どこの局かは忘れてしまった。タキオンの大久保君が、Dで現地へ行った筈だ。

Qザ・

平成二年には「武満徹特集」も収録している。これはそのカメラ割り台本。

【平成三年】1991

 

 この年は二冊本を出した。一つは筑摩の青木さん(最初は大和の青木さんだったが、いつしか筑摩の青木さんになっていることが、この人の油断ならないところである。もっとも、中間に立風の青木さんという時代もあった)が依頼してくれた小説「星屑の海」で、いわば「星の林〜」 の続編的なもの。もう一つは淡交社の雑誌“なごみ”に連載した紀行文「旅の軽さ」である。どちらも、ほとんど売れず、版元に迷惑をかけた結果だけが残った。でも、わたしはメゲない。

 音楽関係の仕事が少なかった。伊福部昭先生の喜寿のコンサートを収録し、ビデオを作ったことが大きな仕事か。武満徹氏の新しいクラリネット協奏曲「ファンタスマ•カントス」を、ウイーンで収録する機会に恵まれたが、カメラ割りだけをして、大久保君に現地での収録を託した。 TBSハイビジョンの仕事である。

 ベルリン•コーミッシェ•オーパーの来日公演三演目を、全部ビデオ収録できたことはうれしかった。カジマ•ビジョンの仕事である。伝説的演出家フェルゼンシュタインによる、オッフェンバック「青ひげ」には浮き浮きしたし、憧れの演出家ハリー・クップファーの「フィガロ」と「ボエー厶」には、中継車の中で溜息を吐いた程である。演目はすべてドイツ語版だった。

 でも、音楽関係のことでいえば、山田一雄先生が突然に他界されたことが、最大のショックだった。何しろ、その秋には札響定期、ベートヴェンの劇音楽「エグモント」をお手伝いする筈だったからだ。その追悼公演には顔を出さなかった。山田先生なくして、その曲をやる必要もなかろう、と勝手に思ったからである。

「モーツァルトの、初期のオペラをコンサートでやりたいから、舞台構成を考えておいてくれ」

 と、宿題を出されていたことも、空に消えた。残念無念。

 アダルトというか、Vシネというか、自分のオリジナル脚本で、「ディアローグ(対話)」というのを撮っている。ジャパン•ホー厶•ビデオの製作だった。

 あれこれ思い出せばキリがない。わたしどもの事務所の長である池谷君が、キャノンのかなり精巧な8ミリビデオカメラを買い、自主製作で「不思議館」というビデオを作ったのも、この年だ。仲間がパートにかかわりなくそれぞれの監督作品をつくろう、という主旨でやったものだ。

 わたしは、自作のシナリオで「受胎告知」というものを、惚れた加賀恵子さんの主演で作った。このシリーズには、岸田理生、寺田農、風見しんごといった方々の監督作品もある。

 暮れに、伊福部昭先生の喜寿記念コンサート収録と、付帯するビデオ収録の仕事をやっている。その打合せで、尾山台のお宅をお訪ねした折り、雑談で円谷英二監督との出会いなどの面白いお話を伺ったことが、思い出深い。その雑談の一端は、「音楽現代」などに書いている。

「ベルリン・コーミッシェ・オーパー」収録時の中継車内で

伊福部昭先生は、ある日、「管弦楽法」の原稿の一部を電車の窓から吹き込んだ風に吸い出され、失ってしまったという。第二次大戦後、ガラスの嵌まっていない窓枠だけの車両が走っていたころのことだ。伊福部ファンの実相寺は 生々しい話にひときわ驚いていた。

篆刻の名手、伊福部昭先生の自書 

カメラ割りを書き込んだ楽譜

【平成四年】1992

 

 この年から、ワープロを使い始めた。四月二十七日から、日記もワープロにした。それがどうした、といわれそうだ。

 アダルトの「ディアローグ(対話)」の小道具および、画面のタイトル文字用に、個人的に買って、事務所に放ったらかしにしていたものを、使ってみる気になったのだ。

「屋根裏の散歩者」の映画化が実現した。プロデューサーは「帝都」からおつき合いが続いている一瀬隆重くんである。

 この勧進元が、TBS事業局長に、望外のいや法外の出世をしていた並木章である。バンダイとTBSの半々の出資だった。

 わたしがTBSに残っていたら、彼の出世は無理だったろう。いまだから話せるが、TBSで同じ釜の飯を食っていた折り、実はわたしの方が、本給が五百円高かったのである。

 クランクイン前は、

「エロっぽく撮れ、エロッっぽくだぞ!それがテーマだ。お前の腕の見せどころだ。エロをネチョリンコと表現しろ!」

 といっていたが、完成するや手のひらを返したように、

「ザビエルだよ、俺は。こんななものを、よくお前は作れるものだ」

 と朝令暮改ぶりを見せつけてくれた。わたしは、出世した同期生にやさしく、ただ彼のいいなりになって、R指定と成人指定の二つの版を作った。劇場では二つとも公開され、ビデオも二種類出る、という珍しい結果になった。

「やっば、屋根裏は成人版だよなあ!」

 そう並木は鼻をふくらませ、カットしたラッシュはもっと凄いのがあるだろう、局長はチェックする義務がある、と息まいていた。

「ウルトラQ」につづいて、アダルトで惚れた加賀恵子をまた一般映画に起用した。並木も彼女はいい、といっていた。エロを見る目だけは、たしかなのだ。

 音楽の仕事では、朝比奈先生と新日フィルの「ブルックナー・チクルス」を収録した。全曲ではない。三番、四番、五番、七番、八番、大地の歌、だったと記憶する。

 (*この年に収録したのは四番、五番、七番の3曲で、八番は翌年2月である。三番は4年後の1996年、マーラー「大地の歌」は1994年に収録した)

 舞台では石丸寛先生と、「兵士の物語」を神戸オリエント劇場でやり、秋には「カルミナ•ブラーナ」をサントリーホールでやった。どちらも、ネスカフェのコンサートだった。

 青島育ちの石丸先生と、幾度か酌み交わしつつ、青島再訪の夢を見ていたが、かなわぬ夢となってしまった。

 小澤さんが語りをやったCD版「ピーターと狼」の録音に立ち会い、演出めいたことをやったのも、この年だ。

「ディアローグ(対話)」のパートⅡを準備し、三部作にする構想だったが、それも脚本を書いただけで終わってしまった。というのも • • •

【平成五年】1993

 

 二月、別のアダルト撮影中(九鬼作品)に、加賀恵子が行方をくらまし、縁が切れてしまったからだ。加賀恵子ぬきでは、成りたないと思ったが、少しオーディションもしてみたが、彼女の印象が強すぎて撮る気持ちに至らなかった。

 何となく、加賀恵子という女優さんには、掌中に留められない希薄さ、とでもいった匂いを嗅いでいた。ふり返れば、突然、こんな結果になる予感もあった。

 その頃に日記に、

 ──加賀恵子に 惚れて空蝉 よのならい

   わらわばわらえ 夢の浮き橋 

 ──かぎりある いのちなれども こぬかあめ

   がらんのほのほ けさゆめにみつ 

 ──    かぜさそふ がらんのゆめも けいけんに

   いまはのきわは ことなかれかし

 こんなくだらぬ歌を、書いている。

 当分、アダルトものは撮らないだろう、とぼんやり思った。

 あれ程やっていた、コマーシャルの仕事をしなくなった。注文が来なくなったからだ。打合せで、クリエーターと称する人達に、あれこれ言われるのが煩わしくなったせいもある。最後に撮ったコマーシャルは何だったろう。日新製鋼だったか、ターダのガス湯沸かしだったか、それとも、・・・いや、さっぱり記憶にない。

 さて松本で前の年から始まった“サイトウキネン”の「火刑台上のジャンヌダルク」の字幕をやり、ビデオ収録をしている。小澤さんがウィーンフィルと来日した折りのコンサートも、暮れ近くに収録している。

 舞台作品はあまりなく、アートスフィアで「ジャン・コクトーと同時代の作曲家たち」というのを、二夜にわたって演出している程度だ。六人組やら、サティーを取りあげたものである。

 単行本を二冊。小学館クエスト文庫の「ウルトラマン•ゴールドラッシュ作戦」と筑摩プリマーブックスの「ウルトラマンの東京」だ。後者は挿し絵も自分で描いているのが、身の程知らずだ。

 プリマーブックスでは、「ウルトラマンのできるまで」「ウルトラマンに夢見た男たち」という二冊を出させてもらっているので、ウルトラ関連の三部作完結、ということになる。編集の土器屋さんに三冊ともお世話になった。

【平成六年】1994

 

 この年、一月六日かぎりで、わたしは禁煙した。意志的にしたのではなく、きっかけはひどい風邪にかかったからである。それ以来今日にいたるまで、禁煙はつづいている。でも、煙草の匂いは好きである。ヒステリックな嫌煙運動には、組しない。ただ、風邪から立直るや、禁酒はつづかなかった。

 この年は、ほとんどが音楽関係の仕事である。ハレー・カルテットとハイドンの「十字架上のキリストの七つの言葉」を、寺田農さんの語りでやり、新日フィルのへネシーオペラ「トス力」を録画した。でも、これは物になっていない。いまだに、未編集のままである。

 収穫は東響の四百回記念定期「モーゼとアロン」である。コンサート形式だったが、美術の朝倉摂、照明の吉井澄雄両先達のお導きで形になった。これが、指揮者秋山和慶さんの毎日新聞の文化賞受賞につながって嬉しかった。

 朝比奈先生とは、チャイコの「悲愴」等を収録し、やはり新日フィルの特別公演のコンサートオペラ「フィデリオ」をやっている。これも、演出にはブーイングが出た。ブーイング体験も二度目となると、落ち着くことができる。申し訳ありません、と謙虚に頭を下げた。東京の朝比奈会の一オタクは、わが家にまで抗議の電話を寄越した。わたしはしばらく、ガードマンを雇った。というのは嘘。

 サイトウ記念ではヴェルディの「レクイエム」を収録。そして、「音楽現代」に連載させて戴いた音楽がらみのエッセイを、日本テレビ出版から上梓することができた。以前、芸術祭参加「波の盆」の折りにプロデューサーだった山ロ剛さんが、出版へ移られていたから、そんな光栄に浴することができたのだ。

          *

 この年の春、わたしは百合ヶ丘から大田区の鵜の木へ転居している。 老齢化した母親を一人暮らしさせるわけには行かなくなったからだ。百合ヶ丘のマンションにも、半分位は生活の拠点を残そうと思ったのだが、 鄙びた都内の田舎である鵜の木の方が、電車も混雑せず、小田急の殺人的ラッシュから逃れられて、次第に鵜の木オンリーの暮らしになってしまった。小田急は、その利用者以外の人々には、妙に評判の良い私鉄である。

【平成七年】1995

 

 新春早々、神戸が地震に見舞われ、大騒ぎになった。

 この年の正月に、以前に新日フィル「スペインの時」でご一緒した鈴木寛一先生から電話があり、東京藝大のオペラ科の修士課程で演出をしてほしい、という要請があり、考えた揚げ句お引き受けすることにした。 人生一寸先はどうなるか見当もつかない、という見本。東京藝大へは、非常勤講師として陽春から通うことになった。

 冬は、東京でブーイングが出た「フィデリオ」の大阪公演を手掛けたが、今度はブーなし。ブーがないのも淋しいものである。もっとも、東京で組んだ高い重層の舞台装置を、予算の都合で運べなかったことから、ごく平凡なコンサート形式に変えたせいもある。震災のお陰で朝比奈先生は火照る暮らしを余儀なくされておられた。でも棒にはいささかの狂いもなかった。

 音楽関係では、新しいJTホールで「兵士の物語」をやった。そしてサイトウキネンではストラヴィンスキー「道楽者のなりゆき」を収録した。これも、日の目を見ていない。

 TBSの並木は、傘下のTBSビジョンの社長になった。本当に悪運の強い男である。

 円谷プロの社長である皐さんが、まだ春秋に富む人生が残っていたのに、他界された。中国ロケの映画「ウルトラマン」を企画されていただけに、無念な思いが残った。

 「小説/ジャイアンツ・ナイター」を書き下ろしたのもこの年である。日本テレビ出版の山口さんの依頼だったが、TBSの運動部の熱血漢がラジオのジャイアンツ・ナイターの放送権に、青春の血をたぎらせるお話で、結果日本テレビでは出せずに、風塵社の小野太久一郎さんに、面倒を見てもらい、翌年に形になっている。

 この小野太久ちゃんとの付き合いは、河崎実の縁で、この年に連載ものを中心としたアンソロジー「ナメてかかれ」という本を出版してもらっている。いつも損をさせてばかり。もう、恩返しもできないかもしれない。

​JTホールでの「兵士の物語」

*兵士・牧野公昭 悪魔・東野英心

【平成八年】1996

 

 この年は慌ただしかった。ひょんなことから、イタリア映画の手伝いをすることになり、寒いうちから外国へ行った。富沢プロデユーサーからの依頼で、面白い脚本だった。

「ある晴れた日に」という、音楽家たちの養老院で、老人たちが"蝶々夫人"の上演をする、という話だった。その養老院で余生をすごしている者を、嘗てのプリマが訪れ、話がトントン拍子で展開する筋書きである。プッチーニ初演の折りの失敗を、若かりし折りの指揮者の失敗と重ね合せる趣向もよかった。

 でも、この映画の顛末を書くには、まだ暫しの時間がかかる。今回は深入りしないでおく。わたしは、ハイビジョンで撮る折りのアドバイザーとして、イタリアのスタッフに加わっていた。だが、撮影半ばで、そんな立場も必要なかろう、と判断して作品から外させてもらった。イタリアには二ヶ月滞在したが、オペラへ行く時間もなかった。

 初夏には、初めてべテルスブルグへ遊んだ。白夜音楽祭に行ったのである。観光もせず、観劇とコンサート以外は、ウオッカの美味しさに浸っていた。

 芸大暮らしは好運に恵まれて事もなく、オペラ定期の「フィガロの結婚」をやらせて頂くことになった。いろいろな紆余曲折もあったが、結果は大過なかった。安堵の胸を撫で下ろす。

 私的に大きな出来事は“コダイ”を作って以来あれこれ一緒に歩んできた大木淳吉君が旅立ってしまったことである。事務所を作った仲間からの、最初の旅人になった。「怪奇大作戦」が終わった後、二子玉川の大木君のマンションに、円谷の禄を食んだ有志が集まって”コダイ" を作ったのである。残念だが、こればかりは逆らう術もない。

【平成九年】1997

 

 正月早々の仕事は、新日フィル「イワン雷帝」である。指揮はロストロポオーヴィチ氏、語りは江守徹氏である。その構成台本を担当した。プロコフィエフの映画用音楽で、松原さんと語りの切り貼りに苦心した。音楽の一つ一つが短いからである。

 さて、ついに、• • •

 わたしは還暦を迎えた。赤いちゃんちゃんこを誰も着せてくれなかった。還暦ということで、ちゃんちゃんこ代わりに素敵なYシヤツを下さったのは、ウルトラの父でもある飯島さんだった。並木は、とうに還暦を過ぎているので、鼻もひっかけてくれず終い。

 ふり返れば、波乱に富んだ一年だった。

 前年の暮に、急なお話で、

「常勤になってくれないか」

 という打診があった。

 一月迷った末に、その大役をお引き受けした。正式に人事異動書を受け取ったのは、二月十三日である。

 人生には何があるか、本当に分からないものだ。わたしは最初の就職を公務員という身分で始めたが、恐らく最後の職も公務員で完結させる運命なのだろう。

 辞令を受けた四日後に、たまたまTBSの同期会があった。

 公務員の辞令を貰ったった折りの文部大臣が、TBS入社同期の小杉隆君だった。まったく、縁というものは面白いものだ。たまたま、同期会があり、わたしは小杉君に頭を下げ、辞令を頂戴する芝居をやらされた。並木が仕組んだ座興だった。

 小杉君が、

「文部大臣としては、任命した覚えがない」

 というと、並木は喜んでヒーヒー涎を垂らしていた。まったく、育ちの悪さが歳につれ増幅する奴である。

 ま、それは兎に角、常勤騒ぎで慌ただしかった冬に、「D坂の殺人事件」をクランクインした。はじめての東映作品である。Pは一瀬さんと東映の黒沢さんだった。オールセットで、これは楽しい二週間だった。

 九時開始で大泉の東映で撮影するのは、家から遠いし、わたしは人一倍朝寝坊なので、以前テレビ映画の監督依頼を

「正午開始にしてくださるなら」

 などと阿保なことを口走つて、即座に断られたことがある。その当時は小田急沿線の百合ヶ丘に住んでいた。遠いというより、朝のラッシュに、小田急に乗るのが耐えられなかったのだ。

 真田広之さん、岸部ー徳さん、吉行由実さん、大家由祐子さん、そして六平直政さんに、嶋田久ちやん、農ちゃん、とキャストにも恵まれ、大泉通いが苦にならなかった。

 以前から、一度音楽をお願いしたかった池辺晋一郎さんに、声をかけた。

「音楽費がないけれど、何とかして下さい」

 とわたしは頭を下げた。才能というのは凄いものだ。オンド•マルトノとヴィオラだけで、豊穣な世界を作って下さったのだから。世界でも数少ないオンド・マルトノ奏者の原田節さんとは、以前、サイトウキネンの折りに面識はあったが、これをきっかけに、いろいろなことで無理をいい、仕事をしていただくようになった。迷惑のかけっ放しである。

「D坂」を終わると、三十年ぶりで「ウルトラ」の世界に復帰することができた。「ウルトラマンティガ」を、陽春に二話撮った。「花」と「夢」である。これも、楽しい数週間のスタッフ、キャストとの共生だった。

「花」の方は天候不順がつづき、殆どをセットに切変えて撮影した。「夢」の方は、建築家の梵寿綱氏設計の建築をイメージの基本にして、実際のロケセットに使わせて頂いた。

 また、音楽物では、厚かましくも朝比奈先生のお相手をしてお話を伺う役をわたしが勤め、「朝比奈隆交響的肖像」というビデオに関係した。これ迄収録した先生の演奏に、その対話が付随したビデオである。

 この年の夏には、二度九州へ寝台特急に乗っている。最初は大分へ「富士」のB個室。二度目は長崎へ「さくら」のA寝台である。長崎へは、雑誌“旅”の取材で、編集の竹内さん、カメラマンの米屋浩二さんと一緒のたのしい旅だった。

 長崎の路面電車に乗った後は、熊本のLRTを取材した。路面電車党でもあるわたしには、夢の数日だった。

 名古屋の合唱団グリーンエコーに頼まれ、井上道義指揮の「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を秋に手がけた。最初はどうなることか、と不安もあったが、合唱団の人達の意気込みと誠実さで、きちんとした舞台が出来上がり、ひどく嬉しかった。一度きりの公演が残念だった。これには勿論、原田節さんのお力を拝借した。

 この年の大きな出来事は、大木君に続いて、ナーちやんこと鈴木美奈子さんが他界したことだ。コダイ•グループ創設ほどなくから事務所を切り盛りし、わたしのATG作品には、"デスク"でタイトルに出ている人だ。「曼陀羅」から制作に加わった鈴木道朗君と結ばれて、「ティガ」の撮影にも来てくれていたのに、・・・無常迅速である。

 また年末ぎりぎりに、高知で義母が亡くなり、実母がその一週間後に慌ただしく他界した。

【平成十年】1998

 

 サントリー成人の日コンサート構成台本を新日フィルの松原さんに依頼された。「魔笛」である。語り手は野村萬斎さん。

 去年が「ティガ」なら、この年は「ダイナ」である。でも、脚本に難航し、結果一話しか監督できなかったのが、心残りである。

 若い村井さだゆきさんとの初めての仕事で、カスパー•ハウザーのことをモデルにして怪獣戯曲を上演する、天才的な、いや天災的な脚本家兼劇団のの支配者の話だが、短い時間に収めるのは、無理だったかもしれない。

 大学の常勤ともなると、休みの期間でもない限り、そうそう撮影もできなくなった。腹心の服部が、いろいろ動いてくれたが、ついに作品には実らなかった。

 ただ、大学に新しい奏楽堂が完成し、こけら落としシリーズの最後に「魔笛」を上演することになり、演出を担当する光栄に浴した。結果はまず まずの評価だったろう。これは学内のオペラ定期にもつながった。

 新日フィルのオペラでは「ペレアスとメリザンド」の字幕を松原さんに依頼されてやっている。ただ、小澤さんが、病に倒れ来日不能となり、代棒になった。が、公演の評判は良かった。

 秋には、親しいプロデューサー森千二さんのお誘いで、久しぶりに「カルミナ•ブラ—ナ」をやっている。新潟の新しいホールのオープニング記念である。秋山和慶さんの指揮でオケは東響。語りは以前やった折りの平幹二朗さん再登場である。でも、台本は筑摩書房から出版されている翻訳を、そのまま使わせて頂くことにした。原本の詩歌を読むのは、これで二度目である。

 大きな舞台を組む余裕のないコンサート専用ホールなので、あまり暴れずにおとなしくやった。森さんには、「大人になった」と頭を撫でられた。もう還暦も過ぎてるんだぞ。老人の頭を撫でないでね。

 この年は旅に出ることが多かった。新潟の後は高松に通った。芸大で骨格を作った「魔笛」を、さらに高松の県民ホールで、リ•メークすることになったからである。思いもよらず、レパートリー・システム風に「魔笛」がー人立ちし、歩き始めた感じである。成人の日から始まって、とうとう「魔笛」イヤーになった。

 この高松通いもたのしい思い出だが、その最大の原因は、久々の新造特急“サンライズ瀬戸”に乗ることができたからだ。女房の里へ行くときも、わたしは以前の寝台特急"瀬戸”に乗っていた。わたしは、国内線の航空便に乗ることは、ほとんどない。

 サンライズ瀬戸は、B個室でも居住性はいいが、フリースぺースか、酒とスナック程度の(自動販売ではない)コーナーがあれば、いうことなしだ、といつも酒とお摘みを抱えて乗車していた。

 ついでにいえば、売店も食堂車もスナックコーナーもない、700系なんて新幹線が、五時間ちかい行程を走る現状は、信じられない。

 年末には、はじめて宝塚公演のビデオを頼まれ、新しい“宙組”の「エリザべート」を

大劇場で収録した。これには、大阪東通のスタッフと、いつも一緒に行動してくれる

中村由利の力が大きい。でも、結果を宝塚の依頼主が喜んでいるかどうかは、わからない。

 そうそう、初めて、「地球防衛隊」というゲームの、タイトルバックのコンテ作成と

題字を引き受けた年でもある。基本的なキャラクターや、メカニズムのデザインをや

られた小林誠氏の才能には驚嘆した。世間は広い。凄い人がいるものだ。いつか、

小林さんのアイデアとコンセプトで、特撮ものをやりたいものだ、と夢想した。

 この年から「フィギュア王」に、エッセイの連載を始めている。“フィギュア助っ人”と

いう題名で、いまに続いている。

【平成十一年】1999

 

 シュミレーション・ゲーム「地球防衛隊」が発売された。ゲームの世界はわからないが、未来がある業界だ、と思った。でも、あまり評判にならなかったのが淋しかった。

 この年は何と言っても、東京室内歌劇場の創立三十周年記念公演「狂ってゆくレンツ」を演出したことが、一つのステップだった。小屋は新国立小劇場である。

 指揮の若杉弘さんとは初めての仕事だったが、トラブルもなく、瓢箪から駒のような仕事になった。いつもいつも、金のない条件で舞台を構想してくれる唐見博さんのアイデアに、感謝した。照明の牛ちやんにも、手を合わせたが、本人にはいわなかった。増長するといけないから。でも、目白押しの海外勢引っ越し公演、提携公演の中で、小さなこの仕事が評判がよかったこと、ひどくうれしい。

 正月のサントリー成人の日コンサート「椿姫」では、昨年にひき続きその構成をやらせていただいた。語り手は市川染五郎丈。

 いろいろと仕事を共にし、且つ呑み友達でもあり、音楽上の導師でもあった松原さんが、新日フィルを止められ、関西は兵庫西宫のホール準備へ行かれてしまった。それがショックだった。

 芸大では、奏楽堂で「音と色彩」という若杉弘さんの企画によるコンサートを手伝っている。スクリアビンの「プロメテウス」メシアン「天国の色彩」ストラビンスキー「花火」といったプログラムを、普通のコンサー卜と色彩の変化を伴った演奏との、二つの側面から形にしたものである。

 何年も前、「プロメテウス」は都響の定期でやろう、とマエストロ、照明の吉井さんと話していたものだ。漸く実った、ということでホッとした。

 この年の二月に芸大の修士演奏で成果を上げて卒業した、ソプラノの日隈典子さんの横須賀芸術劇場小ホールでのリサイタルをお手伝いした。晩秋のことだ。三木稔作曲の歌楽「鶴」である。最近は、こういうコンパクトな舞台の手伝いが、ひどく楽しくなっている。やはり、老化現象かしらん?

 ダイエーホークスが日本一になったのは意外だった。昔なら興奮したことだろう。この年は旅に出ることが少なかった。夏に写真家の鬼才丸田祥三さんと雑誌「東京人」の取材で、都内の廃線跡を数個所と、JR大井工場を訪ねたのは楽しい思い出である。そういえば、JTBの竹内正浩さんを事務局長に、昨年から“地球鉄道防衛隊”というのを組織し、丸田さんもわたしもその会員である。ただし、現在のところは単なる呑み会である。

【平成十二年】2000

 

 さてさて、ようやく本年にたどり着いた。

 構成を担当する、サントリーホール成人の日コンサー卜の演目は「トス力」だった。佐藤しのぶさんのトス力である。語りは和泉元彌さん。 今年から成人の日が変わり、戸惑った。

 そして、わたしにとって、初めての二期会オペラ演出になる「魔笛」を、

稽古している。

 毎年わたしは年頭に、個人的な願いを神に祈っている。

 今年の願いは以下のごときものだ。

 *1/健康第一、家内安全 

 2/二期会「魔笛」公演の無事と成功 

 3/コダイ十五周年のイヴェントの成功 

 4/無駄遣いをしないこと 

 5/映像の仕事ができること 

 6/九州へ旅ができること 

 7/鉄道関連の単行本を出せること 

 8/熟睡 

 9/物を捨てる

  10/呑み会が数多くできること 

 11/LRTのことが進展すること 

 12/個人的昭和史を書くこと 

 13/夢を記帳すること 

 14/郵便局巡りでスタンプの数を増やすこと 

 15/膚の痒さが収まること 

 もっとあるのだが、あまり欲張った願いは私的な日記にとどめて

おくべきだから、ここには記さない。

 この駄文が公になるころには、ここに上げたいくつかの項目、

というか夢には、結果が出ているだろう。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、••• 

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