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実相寺昭雄:私のテレビジョン年譜

実相寺昭雄が「私のテレビジョン年譜」と題して綴った、昭和34年(1959)から平成12年(2000)までの仕事録をここに順次掲載する。

第1回【昭和三十四年】1959

 

 私はテレビ局に入社した。フジテレビの試験に落ちて、TBSに合格した。一勝一敗。フジテレビの試験問題はひどく難しかった。例えば、''下駄の鼻緒は足の親指と第二指ではさむようになっているが何故か?というような問題。"七合枡と五合枡で九合の水を汲むにはどうするか"という問題。まだ覚えているが書くのは止める。落ちた所の試験問題は忘れないものだ。 後年、私と同期のフジテレビの連中と会った時など、コンプレックスを感じたものである。

 その頃、私は故あって、昼間某所に勤めていた。しかし、そこの水が合わず、かねてより念願だった映画の世界に入りたいと思っていた。しかし、映画会社には頭に来た。夜間部の卒業生を受けつけてくれなかったから。

 TBS (当時はラジオ東京テレビと言っていた)の入社試験は、東大の教室を借用して行われた。行ってみると、あんまり 沢山の応募者がいたので、合格は諦めていた。それでも、親戚に紹介して貰ったコネと昔お隣リに注んでいた人がたまたまTBSに居られた、という別口のコネが私にはあった。そこに一縷の望みをかけた。

 恐らく、そのコネが利いたに違いない。私はギリギリで入社できた。入社して後、成績のトップは今野だ、という噂が流れた。最低は、私か並木だろう、という噂も流れた。世話になった方に何をお礼に持ってゆくべきか解らず、駱駝のシャツとステテコを買った。それを差し上げたら、目を白黒させておられた。並木にそのことを打ち明けたら、ひどく怒っていた。「そんなものは無礼だ。ジョニ赤(当時は価値があった)にすべきだ」と。しかし、入っちまえばこっちのものである。

 面接試験の折、''何のテレビ番組を見ているか"と聞かれたのには困った。当時、我家にはテレビがなかったのだ。私の同期生、並木章(現在TBS制作局プロデューサー)は「NHKのおとらさんが好きです」などと、出鱈目且得意気に答えていた。しかし、“おとらさん"は当時TBS一の人気番組だった。これでも受るのだから、存外TBSの試験は大したことなかったのだろう。

 更に余談を重ねれば、試験官に"尊敬する人物は?"と聞かれて、私は"南海ホ―クスの鶴岡一人"です、と答えたのだが、 これについても並木に合格発表前に注意を受けた。 「そういうことを聞かれたら、リンカーンかジェファーソンと答えるべきだ」と。

 「ジェファーソンなんて、良く知らねえもん」

 と言うと、「知らない人物ほど尊敬できるものだ」と彼は胸を張った。

 まァ、運良く入社して、運良くテレビの演出部に配属になった。この時、直でテレビの演出、教養へ行った仲間に、村木、高橋、中村、並木、それに作家になった阿部昭などがいた。この中で、先刻より名前の出てくる並木とは、大学時代からの腐れ縁である。彼は入社決定後も、大学卒業がおぼつかず、 ウィスキー、カステラ等あらゆるものを教授の元にせっせと運んでいた。八割方はつき返されて処置に困り、泣く泣く大学近くの喫茶店で大箱のカステラに自らむしゃぶりついていた。そのくせ、涙声で「TBSのラジオの受付には良い女がいる」等と大きな目玉に好色さをむき出しにしていた。

 早稲田を卒業する日、私と並木は連立って卒業式を見物にいった。普段、大学構内に余り足を踏み入れたこともない並木が、 卒業OKの嬉しさに自ら進んでやってきた。二人で、大講堂の最後列にいて式典を眺めていたのだが、突然「総代として呼ば れたらどうしよう。前へ出て行くのが大変だ」と、並木は真顔で心配しはじめた。昂ぶる彼の気持を抑えるのは大変だった。 ちなみに 私は「ルネ•クレール又は現実の鍵」という卒論を書いた。フランス映画のことを書いて誤魔化したが、彼は堂々と「モーパッサンに於ける性交後の悲しみ」という題の卒論をものしていた。二丁目の灯が消えたのは、三十三年である。

 扨扨、陽春から夏迄の研修期間が終って、私たちはスタジオ番組のAD (アシスタント•ディレクター)になった。当時T BSの演出部は班制で、石川、岡本、富井、高橋、小松、橋本、 宮本というチーフ•デイレクタ―の下に、DとADがいた。私は高橋班に入った。『日真名氏飛出す』等をやっていたグループ である。今野は富井班、村木は宫本班、高橋は小松班、中村は橋本班、そして並木はどういうわけか芸術家グループの岡本班だった。ところで、中村は研修中に酔っ払って便所の扉と窓を間違え、フルチンのまま契約旅館の二階から転落して秋迄入院。今野はミスキューを出した揚句、番組進行中にスタジオより遁走泥酔して契約旅館で煙草を消し忘れてボヤ騒ぎ。教養へ回った阿部は先輩のすべてをバカ呼ばわりし、何の命令も聞かず、我々同期の評判は地に堕ちた。TBSの編成局では、昭和三十四年組というのは屑の集まりと言われていた。

 この年から、私はさまざまな番組のアシスタントをやった。 思いつくままに列記してみれば……『屋根の下に夢がある』『日本剣豪伝』『鞍馬天狗』『駈け出せミッキー』『東響コンサートホール』『日曜観劇会』『東芝日曜劇場』『銭形平次』『日真名氏飛び出す』『東京〇時刻』『母と子』『この謎は私が解く』『夕やけ天使』『あばれ奉行』『新選組始末記』『ホップステップお嬢さん』 『七時にあいまショ―』『お母さん』『三銃士』『刑事物語』『七人の刑事』『ただいま十一人』『近鉄金曜劇場』『サンヨーテレビ劇場』『新劇アワー』『グリーン劇場』……まだあるけど、際限ないからもう止める。兎に角、テレビ演出部から、映画部へと配置転換になる迄、スタジオを駔けまわっていた。“特出”をしたこともある。これはトクダシではなく、トクシュツという。つまり特別出演の略で、ドラマ進行中に突如、闖入者よろしくアシスタントが画面に映ってしまうことを言っていた。キュ をふったら丸めた台本が飛んでカメラ前を横切ったこともある。 私が入社したころは生放送が多かったので、いろいろと珍妙な出来事が日々続出していた。もう少し年を取ったら、ルネ•クレールの『沈黙は金』のように、テレビ初期のスタジオにまつわる喜劇を作ってみたい、と空想している。そろそろ私も「昔は良かった」と呟く年頃になりかけている。同期の仲間で、アシスタントとして特出の王者は並木。高橋はうまく立回った故かそういう不体裁を免れている稀な男だ。

 扨、昭和三十四年頃はVTR番組は未だ少なかった。但しドラマ・音楽もの・劇場中継がVTR化してゆく速度は早かった。それでも編集はままならず、収録の際は頭から尻まで通しでやることが多かった。途中でNGが出ると、二本収録しているVTRをON・AIRでのりかえるか、頭から収録し直すか、という時代だった。

 この頃、アシスタン卜のやる仕事と言えば、予算書からはじまって深夜送りの車両伝票、弁当の伝票に至る迄、あらゆる種類の伝票を書くこと。コマーシャルの素材を揃えたり、キュー・シートを書いて投写室等に配ること。稽古場に日本茶とジュースを用意すること。そして和室のセットを想定してゴザを敷くこと等々。本番でスタジオに入る前にやることが余りに多く、しかも一人のアシスタントが一週間に四、五本の番組をかけ持ちしている為、ドラマを教えられる余裕などまるでなかった。 勿論、他局のことは知らないが、手をどう抜けば良いか、C調に生きるにはどうすればよいか、とい た知恵は確実に身についてゆく環境だった。

 夏に演出部に配属になって、秋には芸術祭ドラマ(当時は局内あげての盆踊りのような感じだった)『あざのある女』(石川甫演出)につくことになった。少しはマシなことをやらせて貰えるのかと思いきや、十人程いるアシスタントの最後尾でスタッフの車両と弁当の担当。二週間近くにわたって、二百人近い出演者とスタッフの車両と弁当の手配をやっているうちに、芸術祭は終ってしまつた。もう二度と芸術祭にはつくまいと思っていたが、 以後毎年芸術祭につけられる羽目になった。それというのも、その時の私の弁当手配が余りにも鮮やかだったからであり、以後“弁当の手配にかけちやTBS一”などと阿呆らしくもおだてられた故である。

AD時代の実相寺昭雄

左は石川甫(のちのテレパック社長)

第2回【昭和三十五年】1960

 

 この年も、ずーっとアシスタント暮し。弁当の手配とゴザ敷きに明け暮れていた。

 確かこの頃、演出部同期の仲間たちと、"dA”という雑誌を発行した。生意気にも「早く俺たちにもディレクターをやらせろ」という趣旨で発行し、局の内外に配ったと思う。

 そして、一度だけ具体的な行動を起しかけた。

 『おかあさん』という番組を、一回、三十四年組の新人に共同演出でやらせろというもので、余り我々の騒ぎ方がうるさいと思ったのか、"じゃあ企画してみろ”ということになり、台本迄作ったのである。結局スポンサ の受け容れる所とならず、この企画は没になってしまったが、アィデアは並木、構成は今野で、皆でケンケンガクガクの末、具体的に書くことが私の役割りだった。

 出演者に殿山泰治、森山加代子を想定して宇野浩二『子を貸し屋』にヒントを得、質屋の若い女房が、ケチな亭主に愛想をつかし、自分たちの赤ん坊を質屋にあずけて、それとひきかえに、亭主の目を盗んで金庫から金を持ち出して遊びに行ってしまう、といった話だった。

同人誌 “dA"(昭和35〜36年)

同人は今野勉・実相寺昭雄・高橋一郎・

中村寿雄・並木章・村木良彦の六人 

第3回【昭和三十六年】1961

 

 前年の後半は『Q』という芸ドラにつけられたが、この年、私は『すりかえ』という芸ドラにつけられた。ピック•アップされた若手演出部員の共同演出ということになっているが、考え方の違う者が集って演出など出来る訳がない。だから具体的には中川晴之助氏を頂点として、真船、酒井、並木に私の五人がテーマの論議を終えた後、一人のディレクターに四人のアシスタントという関係でものを作るということになった。臨時工の問題を扱ったドラマで、脚本は国弘威雄氏と中島丈博氏のもの。途中から確か松本孝ニ氏も加わったと思う。

 この年あたり、ドラマのVTR化はかなり進んでおり、カッ卜では編集しないが、ブロック別に編集するようになっていた。『すりかえ』はそのブロックを相当細分化して、編集個所は、当時としては画期的に多く、七十力所位編集したと思う。『すりかえ』と前後して、この年の秋頃から、ぼつぼつ、私達にもディレクターになる機会が巡って来た。当時の慣例として、まずは劇場中継からである。

 私は日劇の『佐川ミツオ•ショー』ではじめて、自らカメラ割りをし、番組を主導する機会を与えられた。とは言え、映画界のように晴れて監督昇進といった一人立ちの区切りがある訳ではない。“劇場中継など面倒だし、それ程演出の余地もある訳ないし、技術の中継班は手慣れたものだし、心配することはないから、若いアシスタント連中の訓練に丁度良い"といったところが演出部の古い連中の考え方だった。それでも、フロアーを猿回しの猿よろしく駔け回るより、たとえ狭苦しい中継車の中とは言え、並んだモニターの前に坐るのは気持良いものだった。第一本番中坐っていられるというのは大変な特権だし、また楽なことだ。

 放送の時の番組タイトルは『歌う佐川ミツオ』にしたと思う。 約一時間半程の番組だった。もう、どんなつもりでこの中継をやったか覚えていないけれど、たまたま、当時の日記をひっくり返したら、十月十二日付で、この番組をやつたことが書いてあった。今、読み返してみると、意味不明の個所もあるが、まあ恥を晒すのも一興だし、ここに一部分を写しておく。

 

 昭和三十六年十月十二日の日記。

 十月二日に、はじめて中継のデイレクターとしてVTR撮りした"歌う佐川ミツオ”を流した。自分自身の第一歩として、中継デイレクターの段階を踏みだした訳だが、中継という形での演出の在り方と、その自分なりの進め方について、色々な反省をしなければならない。

 先ず、劇場中継というものを、自分の中で、一度完全に解体出来なかったことによる、つみ重ねの曖昧さ。佐川ミツオという一つの素材を利用する際に、自分の中継という形での演出が、従来からあった中継技術というものの前に、七割方敗れさったことを痛感した。テレビ中継演出者としての僕自身がショーに向けた眼は、ものすごく受身のものであったということ。

 そして特に考えねばならないことは、別の演出家は観客と対峙して自分のショーを演出した訳であるが、僕自身の演出とは、そのショーというマティエールと、そのショーに対決している 観客が同時にもう一つのマティエールであるということ、そして中継を行うという時間•空間的な現在性が第三のマティエールである、ということの認識が少なすぎたことだ。……(以下略。だらだらと矢鳕と長く、この日は日記をつけている)

 

 この中継では、せめてアップを多用して素材を追おうとしたつもりだった。先輩たちからは色々と親切な忠告を貰ったものである。ある先輩からは「即興的にオーソドックスな方法へ切り換えるべきだ」と言われたことを覚えている。しかし、そうそう確かな歴史もないテレビ中継の方法にオーソドックスがあるものか、と全く耳を貸さなかった。

 その故か、この年の暮、もう一回やることになった中継ディレクターの機会では、演出部長から厳重に戒告される羽目になった。

『さようならー九六ー年、日劇ビッグ・パレード』という中継が私の二回目の仕事である。

 単にショーの舞台を中継する、というのが劇場中継ではなく、劇場そのもの、その場所、その時間、状況を中継するべきだと考えて、私は中継カメラを劇場の外へ持ち出そうと思った。そして年の瀬に当って、安保をからめて街ゆく人々に戦争への予感をインタビューして廻ろうと思った。劇場の内のショーと外の無関係な通行人をつなぐ時間性が出れば、と思ったのだ。しかし、仲々当時便利な小型カメラもなく、四台目のカメラを使わして貰えず、そんな意図は半分挫折してしまった。そこで、いっそのこと外を全部スチールにし、ドキュメンタルなスチールをカット・インでショーにぶち込もうと思った。

 ON・AIR当日、テレシネに百五十枚ほどのテロップ、スライドを入れた。自分の意図に満足し切って、ショーを度々中断して、街ゆく人や働く人の写真と、戦争への予感のインタビュー・テープを、ON・AIRで挿入した。

 サブで放送中から、ひんぴんと電話が入って来た。別に視聴者からではない。ネットを受けている他局からである。長崎放送からの電話で、“何か混線してる"と言われて頭に来た。"これで良いんです"と電話を切った。放送中大騒ぎとなり、漸く終って素材の回収にテレシネへ行くと、並木が袖を引っ張った。「今、デスクに帰るな。部長が怒って待ってる」と親切に、知らせに来てくれた。

 並木と二人で、部長が帰る迄食堂の片隅で珈琲を呑んだ。

 「中継など、適当にお茶を濁せ。アホなことやるな」と並木が忠告してくれた。

 「済まん済まん」てなことを言ったかどうか覚えちゃいないが、暇を潰して演出部に夕方戻ると、未だ部長は椅子に坐っていた。そこで戒告となった訳である。しかし、この頃は若かったから、何も聞かなかったと思う。

「僕からも良く言っときました」と並木が言うもので、戒告していた部長も白けて終り。

 危機を救ってくれた同窓生には感謝している。だが、しばらく後、並木が彼自身はじめてのドラマ演出『泣くなマックス』を放送した時は、私が彼の危機を救った。放送中、モニターを見ていた演出部長は騒ぎだした。私は放送サブへ飛んでゆき、並木の袖を引いた。今度は深夜の人気なき喫茶室で、二人して部長のほとぼりがさめるのを待つた。しかし、仲々部長とは中途半端な時間には帰りたがらぬものである。深夜宅送の時間迄待っていたのかも知れないが。……兎に角、もう良いだろうと並木を連れて演出部へ戻ると、部長がじっと待っていた。

「並木くん! 何%の視聴率を取れると思うかね」といきなり部長が言った。

「三十%ですか……」と並木。

「三十%?」

「いや二十%かな……」「何ィ、二十%!!」

「いや、十五%、かな……」

「十五%!!」

「いや十%で良いかな……」

「何ィ、十%!!」と部長はカンカンだつた。

「五%かな」と並木は、まるで叩き売りのようだ。

「部長、八%ぐらいにしといたら」と横から私がロを挟んだ。 この辺りで、部長宅送の車が来た筈である。

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第4回【昭和三十七年】1962

 正確には覚えちゃいないけれど、この頃、JOKRーTVは TBSーTVと名前を変えた。そして、赤坂一ツ木には新社屋も落成して、現在ある姿の局になったと思う。しかし、現在は入口あたり矢鳕に栅があり、まるで檻のようだ。

 この年もしがないAD暮しだが、何本かディレクターをやった。

 陽春に、三度目の日劇中継『フランク永井ショー・君恋し』

 並木の忠告に従って、そろそろドラマもやれる頃だし、(浅薄にも当時はドラマのディレクターをやるのが目標だった。何せ、ドラマのTBSの演出部員だったから)この中継は正に適当にお茶を濁した。胸を張って、放送直後に演出部の部屋に戻った。

 「あんまり、画面にハレーションを入れるなよ」と部長が、優しく言った。

「まぶしかったですか?部長」と、私も優しく答えた。

 

***

 

『おかあさん あなたを呼ぶ声』

 脚本、大島渚。出演、池内淳子、戸浦六宏、他。

 これが私のはじめてのドラマ作品である。

『愛と希望の街』という大島さんの映画にいたく感動して、

脚本をお願いした。代々木の長田ビルにあった「創造社」へ

赴き、大島さんにお会いした。『天草四郎時貞』のポスターを

背にした大島さんはひどく大きく見えた。“『愛と希望の街』を

裏返しにして、それを超えたもの"とか何とかしどろもどろにお願いしたと思う。兎に角、引き受けて下さり、素晴らしい脚本が出来上った。しかし、演出した結果は龍頭蛇尾に終った。このドラマのはじまってから五分位のショットの積み重ねは、恐らく私の演出した全作品の中で最良のものだと思う。しかし、感覚と技術が最後迄、あの手この手と考えすぎて、脚本の生命を殺してしまった。特に、ラスト・シーンの撮り方について、ひどく大島さんに叱られた。「いたずらな技術を捨てて、きりかえして撮るべき所は、きちんと撮らなければ駄目だ」田村孟さんには 「頭から、余り高いヴォルテージで出ると、収拾がつかなくなるぞ」と言われた。こういつた言葉は、忘れるもんじやない。未だ、頭の芯に残っている。

 この時、私がディレクターになるにつけて、局内では、先輩の真船禎さんが応援して下さった。この作品はVTRのブロック撮り。確か四ブロック位、深夜録画だったと思う。夏期賞与の闘争中で、ストライキ除外例の番組だった。この時から、私の演出したテレビスタジオ時代の作品の美術はすべて森健一が担当してくれた。「あなたを呼ぶ声」には音楽をつけず、音響と、トレルリの卜ランペット•コンチェルトを使った。これについても、大島さんの忠告を受けた。「音楽は利用するべきだ」と。

 

***

 

『おかあさん 生きる』

 脚本、石堂淑朗。出演、菅井きん、原保美、山本学。それに、 ドラマは素人のモデル、吉原恵子さんが加わった。吉原さんの度胸の良さと低いドスの利いた声には驚き入った記憶がある。

 囲われ者の二号の娘に、ダニのようにくっついている母親の話で、娘が出奔すると、アパートの隣に住む貧乏学生の元へ“母親になってやる"と転がり込む結末だったと思う。この脚本は、石堂さんが『NTV-愛の劇場』という番組の為に書いた作品で、せんぼんよしこさんが演出される予定だった。何故かNTVの方でキャンセルになり、それを私が貰い受けたのである。既にNTVの名前入りで印刷された台本があり、その表紙を破って、TBSの印刷所へ回した記憶がある。とても面白い脚本だった。 放送は七月頃だったか。VTRのブロック録画。後半の十分程を、クレーンにのったカメラが縦横に動くワン•カッ卜で撮った。この頃、TBSの技術者たちは、カメラからケーブルさばきの人に到るまで、職人的に上手だった。

 「テレビの場合、ながら視聴なのだから、余りカメラワークに凝っても意味がない。お茶を呑もうと下を向きゃ、折角のワン・カットも二カットになってしまうよ」と部長に忠告された。 

「折悪しく眼にゴミが入って、またたいたら、百カッ卜程になりますか」と私は答えた。

 この喜劇に合せて、ジンタ風の音楽をつけようと思い、作曲を冬木透さんにお願いした。そして、集まった演奏者の方々に、わざとぶっつけの初見で演奏して頂いた。テンポが外れたり、出鱈目な演奏となり、ひどく良い効果だったと思う。

「もっと上手い演奏家は集められないの?」

 と部長が言った。

「番組の音楽費が足りないんですよ」と答えると、

「そうか」と部長も納得していた。安い予算内で処理していることを匂わせると、部長は納得するものだ。

 

***

 

 八月に、『おかあさん あつまり』を演出した。脚本は中山堅太郎。この男は、当時TBSで一緒にフロアーをやっていた。 今は電通の社員である。出演は、斎藤チヤ子、田村正和、ホキ徳田、他。これもVTRだった。

 遊び狂ってるブルジョアのドラ息子グループにひっかけられたファッション•モデルのお話で、妊娠したと訴えると、ガキを堕せ、堕さないというロ論になり、妊娠したモデルはその仲間から放り出され、一人で母親になるだろうという暗示が結末。 風俗的ドラマだった。雰囲気としての音楽に、ペトラ•クラークの「ヤ・ヤ・ツイスト」や、オーネット・コールマン、ウェス・モンゴメリイなどを流した。この時期、余談だけれども私はモダン・ジャズに狂っていた。その仲間が美術の森健一。輸入レコードのバーゲン・セールなどで、今考えれば馬鹿馬鹿しいが、一枚しかないレコ—ドをめぐって、殴り合いの喧嘩をしたものである。

 

***

 

 この三本の『おかあさん』を演出した後で、またまた芸術祭に放り込まれてしまった。前年の『すりかえ』が共同演出という奇妙な形を産んで、まずまずの成果。この年もー本はグループでやろうという結論になったらしい。今度は四人で、大山勝美氏を頂点として、梅本、鴨下と私。プロデューサーは石川甫さんだった。脚本は山田信夫さん。途中から、白坂依志夫さんも加わったと思う。『若もの—努の場合—』という題だった。これも共同演出は現場に入る前迄。実際は大山氏に一任し、梅本がロケ担当、私がスタジオ担当のADをやった。鴨下は何をやったのだろう?調子良く逃げまわっていた気もする。

 一家の生活の重みが肩にかかる工員の若者と、彼を励ます恋人のお話。随分、色々な所にVTRロケをしていたが、何しろ大山氏は完全主義者なので疲労困憊した。当時、坂本九の「あの娘の名前は」という歌が流行っていて、一ブロックを終って、VTRをプレイパックする時、梅本と二人で、

 〽OKカナ、NGカナ、

 ハ夕KEEPカナ、カナ、カナ、

 ナカ、ナカ、キマラナイ、

 などと歌っていたら、「無礼者!! 共同演出だぞ!!」と、トーク•バックで大山氏にドナられたことを覚えている。

 結局、この年も芸術祭で終ってしまった。

『あなたを呼ぶ声』の一シーン
おかあさん

第5回【昭和三十八年】1963

 

 この年あたり、勿論AD暮らしが大半だけれども、色々な番組のディレク夕ーをやる機会も増えてきた。何しろ、元日特番の演出をやることで、一年が始まったのである。

 特番と言っても、ー時間ものの歌番組で、『ハィティーン・ア・ラ・モード』という奴だ。ただ有名歌手が出て、持歌を一曲ずつ歌うだけなのだが、それじゃ面白くなかろうと、出演歌手に "何故、歌を歌うのか"といったことをはじめとして、いろいろな質問をぶつけてみた。佐々木功さんが"労働、その報酬でお金を貰う”といったのが印象に残った。構成は中山堅太郎にして貰い、美術の森健一と一曲毎に違うセットを考え、まァ、歌手の方には申し訳なかったけれど、出演者をオブジェにして、カメラで遊びに遊んだ。魚眼レンズで股下から撮られた佐々木功さんなど、ニコニコしていたけれど、内心憤懣やる方なかったに相違ない。ドラマをやる時とは違って、音楽ものをやる時は、全ての遊びが許されているようで楽しかった。けれども、そのうち遊びが過ぎてホサれてしまった。この番組に出演された歌手の方々は、平尾昌晃、スリー•ファンキーズ、西田佐知子、飯田久彦、弘田三枝子、斎藤チヤ子、佐々木功、安村昌子、克美しげる、……まだ他にもいた筈だが、もう想い出せない。

 この番組は、私の番組にしては珍しく好評だった。きっと局のオエラ方が屠蘇気嫌で見た故だろう。当時の大森直道編成局 長にわざわざ呼びつけられて「お前にはチンケな絵心があるんだなァ」と言われたのも、この番組の放送直後だった。たまたま同席していた部長が、「局長!こいつには絵心だけはあるんですよ」と酒を注ぐと、局長は部長の顔を見て、「お前は絵心が解るのかい?」と言っていた。

 

***

 

 この頃、私は週にドラマ二本、音楽もの一本のADをしていてひどく忙しかった。普通、ドラマ班と音楽班は分かれているものだが、何の因果か身の不運、その両方にまたがるシフトにつけられたのである。その間を縫って、正月中に、『おかあさん 鏡の中の鏡』を演出した。

 脚本、須川栄三。出演、朝丘雪路、丹阿弥谷津子、他。

 母親代りのステージ•パパのお話だった。とは言え、喜劇ではなく、その親が娘に重く響く心理劇。これは部分VTR撮りの生放送だった。確か、このドラマも音楽を使わなかった筈だ。

 二月に、『おかあさん さらばルイジアナ』

 脚本、田村孟。出演、原知佐子、川津裕介、石坂浩二、その他。この脚本も、NTV『愛の劇場』用に書かれたものだ。それをまたまた拾わせて貰った。

 神学校の学生と義母の関係。複雑な感情の交錯と、欠落の告発。かなり難しいけれど、素晴しい脚本だったと思う。今、お 話の細部を想い出せないが、自分としては全力投球だったと記憶する。フィルムロケあり、部分VTRありの生放送だった。 ランスルーを終った頃、主演の川津裕介さんが精神昂揚の極に、科白をすっかり忘れてしまったと言い出してうろたえた覚えが ある。鎮静剤の注射をうって、何とか生放送は無事だった。VTR万能の現在から思えば、この緊迫感もなつかしい。

 音楽は八木正夫さんにお願いした。モーツァルトの“レクイエムK626”のモダン・ジャズ的アレンジだった。

 この後、春から夏にかけて『七時にあいまショー』という歌番組を何本かやった。土曜の七時に放送していたポピュラー音楽の枠だ。このシリーズ、あまり視聴率も良くなかったと思う。 佐々木功、飯田久彦、斎藤チヤ子、安村昌子の四人がレギュラーで、主に荻原敬一さんと田中敦さんがディレクターだった。 私は四月に企画変更になる前の、四人のレギュラーによる最終回を担当した。

 しかし、この時、何というサブ•タイトルをつけたかは覚えていない。レギュラーの他に仲宗根美樹、松島アキラ、といった方々も出演した。正月の特番で味をしめて、またぞろ森健一の悪ゴリのマットと出鳕目なカメラ•ワークで、歌を滅茶滅茶にした。VTRプラスフィルムで、歌のイメエジをべたべたフィルムでふくらませたが、やや色々なことをやりすぎて、見苦しいものになってしまった。例えば四面鏡の箱の中で歌って貰い、マジック•ミラーなのでカメラは外からぐるぐる回って撮ったりしたが、まるでガマの油といった感じ。従来の小節毎のスムースなカット割りに耐え切れず、カットをもっと細分化し、しかもポジとネガで切り換えたが、ホールドせずに全部流れてしまった。それでもVTRを撮り直す余裕なく放送しちまったが、翌週から企画変えになるので、スポンサーも、部長も何も言わなかった。

 四月からは、古今亭志ん朝さんが司会となり、毎回単発形式の歌番組になった。それでも『七時にあいまショー』のタイ卜ルは残っていた。新企画になってから、「歌う倍賞千恵子」が、私の最初の演出だった。

 構成は中山堅太郎。“下町の太陽”という歌を中心にして、ドラマのようにくそリアルなセットを組んで撮った。篠田正浩さんに対談のゲストとして出演して貰った。

 その後にやったのが「歌だ!若さだ!」

 これも中山の構成。Gスタジオの高い天井一杯にジャズ喫茶のどでかいセットを組んだ。天井を地表にして、地下二階のセットにした。ジャズ喫茶をスタジオに再現して、客席、舞台、 楽屋等の雰囲気をリアルに描こうと思ったのだ。当時のトラカメは性能も悪く、技術担当の武谷さんに相談したところ、普通のカメラのオルシコンだけを肩で担ぐような形を作ってくれた。 石井浩カメラマンがオルシコンを肩で担いでセットを歩きまわってくれた。このカメラ分解しちまった故に他で余り役にも立たず、以後私専用のカメラと相成った。

 それから「TVっ子、九ちやん」

 構成、永六輔。ゲストいずみたく。永さんには画面にも出て頂いた。森健一と私は、歌番組に劇用のセッ卜を組むということに凝って、川崎の工場街をバックにした空地と路地を、Gスター杯に組んだ。水溜り、塵芥、ドラム缶、等を配し、更に汚しにも腕をかけて、刑事ものの犯人逮捕の場といった感じのセッ卜を作った。二人はVTR当日あまりの出来栄えに満足し切っていた。ところが、ドラマの時間になっても、誰もス夕ジオ入りしない。九ちやんもあらわれない。ADにも来ない奴がいる。局内を駆けまわってみれば、皆ドラマのスタジオに変更になったと思い、クローク辺りでスタジオ表を調べてうろうろしていたのだ。この一件で、また部長に呼ばれた。「あまり、まぎらわしいセットを組むな。歌を聞かせりや良いんだから、パネルか、ミラーボールがありゃぁ良ぃんだ!!」と、部長に言われた。 

「今度ドラマの演出をする時に、歌番組風のセットを組みます」

 と私は素直に答えた。部長のあきれたような顔が今でも目に浮かぶ。

 

***

 

 この頃大島さんが同世代だからと佐々木守さんを紹介してくれた。彼の書いた『おかあさん 静かな恋人たち』は印刷迄したけれど、ついに部長は首を縦にふらなかった。いろんな企画が流れたが、これが一番口惜しかった。何故なら、その脚本には我々の世代の感慨がこめられていたからだ。闘争の高揚期に結実した愛が、闘争の解体と共にしぼんでゆく過程を取り上げた、一種の"されどわれらが日々"である。この他にも篠田正浩書下ろしの、戦後のべビー•ブームを主題にした脚本も流れた。思えば、企画を共に考えたり、脚本を書いて下さった方々に、随分迷惑をかけている。

 扨、この頃私はどんな日々を送っていたのか。たとえば、

 

 昭和三十八年五月二十一日の日記

 朝、八時三〇分ニ、アシノウラヲクスグラレテ眼ヲサマス。 非常ニ不愉快ナ気持卜ナル。ソノママ二〇分バカリ寝床デウト ウトスルモ、サボルワケニモユカズ、五〇分ニオキル。トリ夕テテ身体ハ疲レテイル訳デモナイガ、睡眠時間ガキリツメラレ ルノハ不愉快ダ。今朝寝タノハ五時三〇分ゴロナノデ、三時間テイドシカ寝テイナイ。デモ、三時間グライシカ寝テイナイ時 ノ方ガ、朝飯ヲ喰エルノモ妙ナ話ダ。パンニ切レ、ヤサイト卵トアスパラガスヲ喰ウ。着換エテ家ヲ出タノガ九時一〇分。ア ラゴンノ『聖週間上巻』ヲ携行スル。ダガ往キノ車内デハ、全ク読ム気ガセズ、目蒲線、東横線トモ眼ヲツムル。地下鉄デハ立ッタノデ、ボーット暗イコンクリートノ壁ヲ見ル。一〇時ニ会社ニ着キVTR室へ行ク。『七時にあいまシヨー』今週分ノ編 集。計六ケ所。意外ニハヤク片附キ、十二時ニ終ル。ガッカリスル。モット生理ヲ発散スルコトハ出来ナイノカ。俺ノ演出的生理モ頭打チダ。食堂デ“お好み寿司”ヲ二人前喰べル。全部喰エル。イササカ心配ナノデ、ワカ末ヲ買ウ。

 演出部会ニ出ル。仲々ハジマラズ雑談トダルナ雰囲気。途中ヌケ出シテ、スポンサーブレビューニ立会ウ。奇怪ニシテ滑稽 ナストリップ。"フザケンナ"トイウ感ジ。又、部会ニ戻ルト、折シモ、演出部ニオイテアルテレビ受像機ハ、仕事ニウルサイ カウルサクナイ力デモメテオリ、コノ演出部員達ニハ怒リトイウモノモコノ次元デシ力内在シテイナイノ力、ト愕然トスル。 シカモ、民主主義ノ部連営ニウマウマトノッケラレテ、自主的ニ勤務ノ自己規制カードノ見本迄作ルモノガ現ワレル始末。

 

 二時ニ、吉川ノ結婚式ノ運営委員会ヲ発足サセルタメニ“いづみ”へ行ク。ソバヲ喰ウ。帰ッテキテ、予算書関係ニ精ヲ出 ス。五時スギニ曲直瀬プロヨリTEL。坂本九ノ使用曲目ヲ打合セスル。九曲。木曜日ニ永六輔氏ト打合セノ手筈ヲ卜卜ノエ ル。六時スギニ、三階ロビーデスパゲッティヲ喰ベル。ワカ末。 演出部ニ戻ル卜、勤ムノ合理化ガ守ラレテイル故力、グット人数モスクナイ。大山勝美、向井爽也ト雑談スルモ、アマリ会社ニ長居ハ無用卜悟ル。九時〇五分ニ会社ヲ出テ、地下鉄ニノル。『聖週間』ヲヒラク。家ニ帰ルマエニ、鵜の木デ本屋ニ寄リ『幻視ノ中ノ政治』ト『バラと革命』ヲ買ウ。家ニ着イタノガ十時〇五分。スグ飯。ナスヲイタメタノト、チャシュート、スープ。三杯喰ウ。十一時ヨリ、ファイブフェザースショーヲ観テ、原稿ヲ書コウト自分ノ部屋ニノボリ、フトンニ横ニナッ夕瞬間、コノ機会ヲ待ツテタョウニ眠リガ身体ヲムシバム。—DEAD

 ガバチョト眼ガサメルト朝ノ三時四〇分。原稿ノ予定枚数一枚モ行カズ、眠リコケタコト痛シ。

 

***

 

『おかあさん 汗』

 脚本、恩地日出夫。出演、稲垣美穂子、加賀まりこ、他。生放送で、一部VTR、一部フィルムだった。夏の盛りに仕事をした。音楽は間宮芳生さんにお願いした。

 二人の性質の異なる姉妹のお話。姉は汗水垂らして一所懸命生きる型。妹は刹那的な享楽に生きる型。妹が妊娠し、二人は "母であることの"条件を巡つて対立するといつたことが核心だった。

 私は部長に約束した通り、このドラマでは音楽もののようなセットを組んだ。例えば、白ホリの前に場所を説明する切り出 し文字の吊看板だけとか。……「存外、こういう方法はリアルじゃないか」と部長に言われて、流石に返す言葉もなかった。

 

***

 

『近鉄金曜劇場 いつかオオロラの輝く街に』

 脚本、大島渚。出演、小山明子、岩下浩、玉川伊佐男、他。 フイルム•ロケ少々を含むVTR。私がヴィデオで作った一時間もののドラマはこれI本である。音楽は真鍋理一郎さん。

 松竹助監督シナリオ集に載せられていた、ひどく長い同名のシナリオに魅せられた私は、TVへのアレンジを監督にお願いした。かなり有名なものなので、お話を説明する迄もないだろう。

 このドラマが放送される迄には、企画提出後数ヶ月の紆余曲折があった。変革への夢は、後衛を自認する局にあっては、無用の夢である。VTR収録後もオクラ入りになりかかった。だが、当時の宮本副部長の口添えなどで、どうにか放送されるに至った。

 このドラマを演出するに当っては、一切これ迄の自分を支えていた感覚偏重を排して、技術の乱舞に眼を外らすこともなく、 人間のこころにだけ眼を向けようと思った。多少、そんな自己規制めいた方法に自然さが欠けていたのかもしれない。自分では、ごく古臭い皮袋に新しい酒を注いだような印象を持った。 ON.AIRが終って、大島さんに「君はテクニシャンだなあ」と言われた時には絶望的な気持になった。

 

***

 

 『七時にあいまショー 若さがある』

 ドラマの演出が終って、また音楽ものに戻った。構成は中山堅太郎。それに詩人山田正弘さんの詩を流した。出演は、内田 裕也、伊東ゆかり、梓みちよ、鹿内タカシ、他だった。早大写真研究会の協力を得て、学生たちの撮影した"青春”の写真をセットの代りに使った。"カリフォルニア"などという歌を鹿内、伊東のデュエットで歌う時、カメラは都会へ働き手の若者が出奔して疲弊した日本の農家へズーム•アップ。……こんなことをやっていたので、VTR収録中サブには鈴木道明副部長がつきっきりだった。鈴木さんにも色々と迷惑をかけたが、彼はボクシングの心得がある副部長で、ロより手が早い。サブは修羅場の観を呈したが、何とか収録し終えた。でも、結局、これが私の最後の歌番組となってしまった。

 ディレクターの機会が頻繁に巡ってくるシリーズに私をつけておくとロクなことはない、と部長たちが考えたのだろう。この年も芸術祭につけられてしまったのだ。大山勝美の『正塚の婆さん』のADとして。

 この芸ドラには、ワリにイキの良い連中がADをやった。鴨下、高橋、村木、久世と私の五人だった。鴨下は何のかんのと理由をつけては現場を離れたし、村木は一見穏やかな顔で全く他のことを考えていたし、久世はこの手のドラマを馬鹿にし切っていたし、私は稽古の間に眠りこけていた。大山さんは高橋しか相手にしなかった。

 芸術祭につけられると、一年は早い。年の瀬に、日劇チャリティーショーの中継をやらされる羽目になった。長時間のショー を、鴨下、吉川、私の三人で分割して担当した。私の担当した所は、美空ひばり、坂本九が主な出演者だった。芸ドラにつけられて滅入っていた反動で、私は思い切り羽根をのばした。 劇場のカメラに、スタジオ用のペデスタルをつけ、舞台上にもロウ•ぺデのカメラをあげて、クローズ•アップで歌手を追った。歌っていない時の表情に興味を持って、間奏の時は超クローズ•アップで肉迫し、歌いはじめると豆粒のような大ロングにひいたりもした。自分の感覚のおもむくままに、勝手な画をとりまくった。劇場のお客さん達も、舞台の上のカメラが邪魔でザヮついていた。勿論、局内もザヮついた。放送が終るや、ひどい戒告を喰った。

「お前は相変らず馬鹿だな」と並木に言われた。

「俺にも経験があるが、まァ、二年はホサれるね」

 と先輩の荻原敬一氏はニヤニヤしていた。この冗談はピタリと当った。何の気なしにやった中継ものの波紋の大きさが、私のテレビディレクターとしての方向に決定的だった。並木に馬鹿と言われるのも無理はない。演出部には、ファンから非難の投書、電話。美空ひばり後援会からの抗議。「お前に火の粉がかからないように苦労してるんだぞ」などと部長に言われた。「大体、お前は番組を私物化している」と副部長。私は天才美空ひばりを尊敬していたが、きっと美空ひばりへの私流の愛情表現方法が世に容れられなかったのだろう、と諦めることにした。 どうともなれだった。こんな混乱のうちに、昭和三十八年は終ったと思う。

『七時にあいまショー』
歌う倍賞千恵子

『七時にあいまショー』

ジャズ喫茶

調布映画祭2003_2 - TBS
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 昭和38年12月25日放送の日劇からの中継番組「トップ・スター夢の歌まつり」について、視聴者から寄せられた投書が、当時TBS演出部で実相寺の上司であり、作詞家としても名高い鈴木道明さんの手元に保管されていたことがわかった。鈴木さんは2015年に他界されたが、このほど盟友並木章さんを通じて当オフィシャルサイトに提供していただいた。

 内容を読むと『何の気なしにやった中継ものの波紋の大きさが、私のテレビディレクターとしての方向に決定的だった』と実相寺が書いているとおり、今風にいえば“炎上”であることがわかる。

 朝日放送*宛の葉書や封書があったり、翌年行われた東京オリンピックの記念切手が見えるのも時代を感じさせる。

 貴重な資料を提供していただいた鈴木道明さんのご遺族と並木章さんのご厚意に感謝いたします。

 

*当時はTBSと朝日放送(ABC)がネットワークを組んでいた。

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アンカー 5

第6回【昭和三十九年】1964

 

 そんな日劇中継と平行して、私はドラマの演出も受け持っていた。しかも、新番 組で、はじめて週一レギュラーのディレク夕ーとしての仕事である。この第一回分 放映は三十八年の暮じゃなかったか、という気もするが、まアどっちでも良い。編成の方で準備した企画は当時NTVで当りをとった『男嫌い』というドラマの男性版で、題は『でっかく生きろ』。四人の独身男性が共同生活をし、それぞれ毎回、自分の青い鳥を求めるという趣向。この四人には、杉浦直樹、岡田真澄、古今亭志ん朝、寺田農がなった。加えて毎回、女性のゲストが出演という形の喜劇。……しかし、企画が二番煎じだった故か、私の演出が悪かった故か、視聴率も余りあがらず、一クール十三本で打ち切りとなリ、私は途中でディレクターからおろされて、六本しかやらなかった。

 私は十三回にわたって、自分なりに周到な用意をしたけれども起用した脚本家のことでもクレームをつけられ、はじめて受持ったレギュラー番組を見事に大敗した。編成や演出部のオエラ方に好評だったのは冬木透さんの作曲したテーマ音楽だけで、部長は放映の度毎に「お前の作るものはわかりにくい」とロ痴をこぼした。思えば、随分"わかりにくい"という言葉を部の管理職に言われたものだ。しかし、『でっかく生きろ』はそれ程わかりにくいドラマだった訳ではなく、年の瀬の日劇中継の余波で、オロサレル結果になつたのだ、と思っている。

 私の担当した分をメモ風に記せば、

 一回目、脚本、白坂依志夫、ゲスト、北あけみ 

 二回目、脚本、寺山修司、ゲスト、水谷良重 

 三回目、脚本、宮田達男、ゲスト、中川弘子 

 四回目、脚本、長尾広生、ゲスト、芳村真理 

 五回目、脚本、進藤重行、ゲスト、田村奈己 

 十三回目、脚本、佐々木守、ゲスト、川口知子 この頃には

VTRが定着しており、生放送はなかった。五回目でオロサレて、再び最後の回をやらせて貰った訳だが、どういう訳か演出タイトルに私の名を出すことを認めて貰えず、上田亨ディレクターの名前が放映された。このことも、いまいましい想い出である。

 私がオロされるに当っては、レギュラーの俳優諸氏も相当抵抗を示し、わざわざ演出部長を交えた会合がもたれた程だった。 この時には、珍妙なトラブルが部長、副部長と私の間で続出したが、ADをやっていた堀川敦厚くんがいつも冷静に処理してくれた。俳優諸氏の抵抗も嬉しかったけれども、生活権の問題に迄なりかかり、堀川くんの努力で何とか収拾することが出来たのだ。最近じゃ、もう遠い昔の笑い話と化しているが、寺田農などは、会う度に「お陰でTBSから、しばらく俺もホサれちまった」と笑う。「馬鹿、自分の芝居とツラのまずさだよ」と私も笑ってやり返す。でも、当時は、真剣な闘いだった。「二年はホサれるね」と言った荻原氏の冗談は当って、私は四十一年迄完全に演出の機会を与えて貰えなかったのだ。このウラミ、いつか晴らしてやろう、と思っているが、所詮ゴマメのハギシリか。……局も大きいし、人も変っちまった。花ぞ昔の香に、とはいかず、いや花なぞありはしない。

 ホサれた日の日記を、写しておく。

 昭和三十九年二月二十六日附のものだ。

 

 午前八時。堅太郎宅ヨリ帰ル。一晩中プー 興ズル。(プーとはトランプでやる麻雀のこと)

 午前八時半。就寝。ジェラール•フィリッブヲカナリ読ム。

 (ジェラール•フィリップの伝記本のことだ)

 午後三時。起床。朝食。

 午後四時。家ヲ出ル。鵜の木駅売店デ漫画サンデーヲ買ウ。 午後五時。出社。直チニ、部長ニ呼バレル。少シDヲヤルナ、トノコト。理由ヲ聞イ夕ガ、明確ナ返事ナシ。ニヤニヤシテ、"ホトボリヲサマセ"ノ一点バリ。ナヲ聞ク卜、イライラシ夕顔デ、"ホトボリヲサマセ"

 午後六時。大山、高橋、並木夕チト談笑。何モスルコトナシ。 

 午後七時。夕食。副部長ト出会イ、“観念的ダ”ト言ワレル。

 観念ガ大切ダ、卜喋ル。サッパリ通ジナイ会話。

 午後八時十五分。金松堂デ、亀井勝一郎『中世の思想』ヲ買ウ。現金。

 午後九時。でっかく生きる、リハーサル。Aリハ。ADトシテオ茶ノ世話。珈琲、紅茶、ジュース、コーラ、日本茶トDヲオ茶責メ。

 午後十一時。一新デ、寺田農、堅太郎ト談笑。

 午後〇時半。漢江デ、夜食。

 午前一時半。アマンドデ、談笑ノツゾキ。麻雀ノメンバー足ラズ。

 午前三時。宅送。

 

 まア、こんな顚末で、私はADに逆戻りとなり、この年は主として『ただいま十一人』などについていたと思う。それでも、シフトでは東芝日曜劇場のディレクターの所にも名前が入っていた。名目上のことだ。『ただいま十一人』で一度、東芝で一度、企画が回って来たことがある。

 部長には、"自分で企画を考えるな、少し他人の企画を演出することだけに精を出せ"と言われていた。従って、他人の企画が回って来た時、自分なりの処理の仕方を考えて部長に説明したら、また“ホ卜ボリヲサマセ"と言われた。テレビでも、よくよくホトボリがさめるのには時間がかかるものらしい。十一人も東芝も、石井ふく子さんがプロデューサーだった。演出部の迷える小羊を導こうとして下さったのだろう。十一人の時は、 "ホーム•ドラマ"の真髄として全編、食い放し。十一人分力レーを作る苦労と、戦場のような食事時間の拡大描写と言ったら部長は首を横にふった。東芝の時は、たしか平岩弓枝原作『女と味噌汁』という企画だったと思う。準備稿めいたもので、美術の坂上健司氏と話をしたこともある。"中心テーマは、隅田川の汚染。味噌汁を作るのが上手い芸者の部屋も悪臭で窓は開かない。“第一カットは、川に浮ぶコンドーム、それからクレーン・バック"と言ったら、部長も何も言わなかった。ただ憐れむような悲しそうな眼で、溜息をしていた。勿論、この二度の話は準備段階にも到らず、ポシャッた。他のDがその企画で立派な仕事をしていた。

 ADの傍、私は長尾広生さんと、大河ドラマの企画書を作った。企画を考えるな、と言われると考えたくなるのが企画である。"何か出せ"と言われると出せないものが企画である。吉川英治の『私本太平記』をべースに、足利尊氏と佐々木道誉に焦点をあてた企画だった。企画書自体が長尾広生氏の大作で、原稿用紙二百枚以上の膨大な企画書だった。しかし、簡単にボツになった。確か、当時編成の岩崎嘉一さんが主人公を「楠正成に変えろ。そうしたらイケル」と親切な忠告を下さったが、私も熱を失っていた。

 何か、八方塞りで、このまま演出部で飼い殺しになるのも目に見えていたが、配置転換にならなかったのは不思議な位だ。 人事移動は、局内で盛んだったが、不思議に私は残った。「僕のことを買ってくれてるんですかね」と鈴木副部長に聞くと、「お前だけは、セリに出しても、他の部で引きとらないんだ」 という返事だった。何となく、演出部にオメオメと居るのも馬鹿馬鹿しく、この年の秋、丁度東京オリンピックの頃、安い切符を手に入れて、外国へ遊びに行ってしまった。有給休暇も残っていたが、長期間休むので、私費留学という名目の願いを出した。部長はブスブス言っていたが、大森局長が許可をくれた。

 IDEHECに入ろう等と本気で考えていたのだ。巴里へ行って、その気も薄れ、シネマ•テークに日参した。この年に、私は結婚した。暇もあったので、自動車の免許証も取得した。

アンカー 4

第7回【昭和四十年】1965

 

 テレビ映画というジャンルが、番組面で幅を利かせはじめたのはこの頃からだ。これ以前、もう何年のことか忘れちまったがTBSではテレビ映画の局内制作を考えて、試験的に栫井ディレク夕ーにフィルムでホーム•ドラマを作らせたり、宮本、円谷、中川各氏を研修でアメリカに派遣したりしていた。そして、円谷、中川、飯島の三氏がフィルムの監督として演出部を離れ、映画部に籍をうつしていた。

 外国から帰って、宙ぶらりんのまま、演出部で過していた私を拾ってくれたのは円谷さんだった。この年に、私は四人目の社外出向監督として、演出部を離れている。映画部に移り度いとの希望を出すと、鈴木副部長に睨まれて、拒絶された。しかし、たまたま円谷氏の演出する日仏合作テレビ映画の話が持ち上り、助監督が居なかったので、うまく話が運んだ。演出部員たちは、外に出たがらなかったし、私の希望は奇特なことだった。

 私は都心の赤坂から、通勤先を祖師谷の円谷プロに変えた。テレビ映画の揺藍期だったし、そこに集う映画人たちは若かったし、楽しかった。TBS局舎に比べれば豚小舎のような所だったが、そろそろ吹いて来た局内合理化の嵐からも遠く離れて、私は息を吹き返していた。とは言え、この年は助監督暮し。自分じゃ一本も演出する機会に恵まれなかった。

第8回【昭和四十一年】1966

 

 日仏合作テレビ映画『スパイ•平行線の世界』は陽春に終った。スタジオでホサれてから丸二年とちよっと。五月頃に、ディレクターの機会がやって来た。

***

『現代の主役 円谷英二の巻』

 フイルム•ドキュメン夕リイである。丁度、『サンダ対ガイラ』 という特撮映画に入っていた円谷英ニ監督をクローズ•アップで追いかけた。この頃、同監督の監修する『ウルトラQ』シリーズがTBSで放映され、大評判になっていたので誕生した企画である。この御縁で、以後円谷英二監督には随分お世話になった。映画部に拾って下さった円谷一さんは同監督の長男だった。今や、時も過ぎ、お二人とも鬼籍に入られてしまった。残念でならない。この番組でインタビュアーをやり、構成も手伝ってくれた金城哲夫さんも忘れられない人だ。以後のウルトラ•シリーズの名脚本家。汲めども尽きない夢の宝庫だったが、彼も若くしてこの世を去ってしまった。きっと、お二人があの世から、相談相手として手招きをされたのだろう。

 この番組で、私はTBS入社後はじめて、上司からねぎらいの言葉を貰った。栫井プロデューサーに「御苦労さま」と言われた。

***

 夏に『ウル卜ラQ』は終り『ウルトラマン』に変った。作品はカラーになった。『ウル卜ラマン』の第ー回放映に先立って、一週間前に"ウルトラマン前夜祭"というショーと予告編をミックスしたものを放送することになつた。杉並公会堂からの中継VTRでやることになった。私には鬼門の中継のお鉢が回って来てイヤな気がした。しかし、栫井Pの厳命で、樋口祐三さんと私の二人がやらざるを得なくなった。映画部に身を投じて僅かな日数しか経っていないし、一回しか監督めいたことはし ていないのに、何となくVTRの世界に戻るのが面倒だったのである。金城哲夫構成で、子供たちにショーと映画を見せ、翌週からウルトラマンを盛り上げようという狙いだったが、樋ロ氏と私は演出責任のなすりっこをしていた。ナンセンス•トリオをはじめとする喜劇陣とウルトラマンのレギュラー•メンバー達が稽古場に来ても気分が乗らず、当日任せの出たとこ勝負にしてしまった。進行役で怪獣博士を演ずる田中明夫さんなど、我々の良い加減さにあきれ返っていた。そのくせ、この番組の制作中、樋ロ氏と私はTBS界隈の旅館に泊り込んで麻雀ばかりしていた。結果が良かろう筈もない。出鳕目な出来具合で、樋ロ氏に麻雀で敗け、厭々中継車のDになった私は、余りの惨めな舞台上の進行に茫然としていた。

 舞台に颯爽と登場したウルトラマンは、ピアノ線の手違いで宙ぶらりんのまま苦しみにもがき、あわてて、幕を下ろすと、それがウルトラマンにひっかかり、満場の子供たちは馬鹿にして口笛を吹いていた。怪獣博士の作った怪獣製造機は本ものの豚からあらゆる怪獣迄造り出す能力があるという設定だったが、豚の出てくる段階で挫折しちまった。キィキィ泣くだけで豚は一向に言うことを聞かず、美術が針金で尻を突くと、製造機の出口から狂ったように飛び出した豚は、鳴きわめいて舞台をかけ巡り、スタッフは取りおさえる為に番組進行中にも拘らず、舞台上を右往左往した。一匹の小豚は怪獣よりも強かった。全編こういった具合で、不体裁としか言いようがなく、樋ロ氏と相談して、放送では、飯島さんの撮った怪獣ネロンガのフィルムを随所に挿入して誤魔化した。栫井Pに二人共ひどく怒られ、責任上どうしても演出タイトルを連名で入れろと申し渡された。しかし、余りの恥かしさに、ON・AIR当日、私はテレシネから演出テロップだけを回収して捨ててしまった。それでも、どういう訳かこの放送が三十%近い視聴率をあげ、すべての不体裁の責任も水に流れた。誠に、民放は聴視率さまさまである。

***

 そして、漸く、私はテレビ映画の社外出向監督としての仕事をはじめた。

『ウルトラマン 恐怖の宇宙線』

 脚本、佐々木守。音楽はこのシリーズを通じて宮内國郎さんだった。撮影は内海正治氏。子供が絵に空想の怪獣を描き、それに宇宙線があたって怪獣になるというお話、最初は「朝と夜の間に」という題だったが、メロドラマっぽいので、変えられてしまった。怪獣の名前はガヴァドン。眠ってばかりいる怪獣だった。ヘンリー•ムーアの彫刻のような怪獣を意図したが、出来上ってみればハンペンのお化みたいでがっかりした。

***

『ウル卜ラマン 真珠貝防衛指令』

 脚本、佐々木守。私の撮ったウルトラマンの脚本は全部彼の手になるもので、以後名前を省く。図体がデカいが真珠を食う怪獣のお話。ひどくグロテスクなものが綺麗なものを内包する主題でやりたかったが、出来上がった縫いぐるみが何とも滑稽で、そんな主題は消し飛んでしまった。怪獣の形は本当に重要だ。ガマクジラと名附け、デザイナー成田氏のイメエジ•スケッチの段階では、見るも気持悪いものだったが、出来上った実物は可愛らしく愛嬌たっぷりだった。特撮の現場に行って、プールに浮んでいるガマクジラを見ると遊園地の浮袋といつた按配で、絶望的になった。

***

『ウルトラマン 地上破壊工作』

 この回から撮影が福沢康道さんになった。縫いぐるみの愛らしさに絶望していた私は、成るたけ特撮を使うまいと決心し、特撮班との間でちょつとしたトラブルがあった。しかし、番組売りものの怪獣を出さない訳にはゆかず、怪獣テレスドンというオケラの巨大化したような奴を作った。お話は、地下に眠る怪獣を持って地球征服をたくらむ悪との闘いだったと思う。この頃、ゴダールの『アルファヴィル』というSFを観て感銘を受けていたので、特撮を極力使うまいと思っていたのだ。しかし、結果は似ても似つかないものとなり、方法盗用の汚名も着ずに済んだ。皮肉な話である。

***

『ウル卜ラマン 故郷は地球』

 大国間の宇宙征服競走の犠牲者である某国の宇宙飛行士が、ある惑星に不時着し怪獣に変身するお話。故郷忘じ難く地球に戻ってくるが、故郷はその異形を受け容れず殺される結末だった。怪獣の名前ジャミラは象徴的だろう。相当カを入れて撮ったのだが、力が入りすぎて色々なシーンをカットせざるを得なくなった。隊員の一人が大国の覇権主義に疑問を抱くラストも、そのために薄くなってしまったのが残念だった。死にゆくジャミラが赤ん坊のように泣く所では、本ものの赤ちゃんの泣き声を使った。私の演出は肩に力が入りすぎていたが、佐々木守の脚本は素晴らしかったと思う。

 何をやろうと、このシリーズには固定した高視聴率があり、そのお陰でテレビ映画監督としての私の出発は順調だった。局のデスクに来ることも少く、演出部時代と異なり映画部長津川溶々さんは優しすぎる程の人で、いつもニコニコだった。

 

移動を指示したカット割り

第10回【昭和四十三年】1968

 

 年が明けて、また京都。正月早くクランクインする筈だったが、生来のなまけ癖が出て西山正輝監督に代って貰った。一月下旬迄東京で遊んで、京都へ戻った。

 

***

 

『風 誰がための仇討ち』

 脚本、石堂淑朗。出演、内田良平、玉川伊佐男、原知佐子、 他。この作品もタイトルでモメた。もともとは「花は桜木人は武士」という題だった。今もって、何故このタイトルが悪いのか解らない。脱藩浪人と彼を敵とつけ狙う老武士と娘。その敵討ちを"風"が助けるお話だが、各人にそれぞれのぬき差しならない事情と優しさがある、というものだった。抑制の利いた良い脚本だった。その脚本の調子に沿ってストイックな演出をしたつもりである。ひどくシリアスな話だった。音楽を殺して、心理的に響く効果音だけで盛り上げていった。最後、浪人が死ぬ場面でヴィットリアのカン夕ー夕を使つたことを覚えている。この回では、町田敏行カメラマンが一本立した。

 京都松竹のスタッフ達は、寒さにもめげず本当に良く働いた。 雪の二尊院ロケの折など、つながり上積雪が邪魔になり、総出で雪搔きをしてくれた。そして、ただ一カットのフル•ショットを撮影可能にしてくれたのだ。

 

***

 

『風 江戸惜春譜』

 脚本、鈴木生朗。出演、斎藤チヤ子、山ロ崇、花沢徳衛、梶健太郎、他。

 春をひさぐ女と島流しになった恋人の純愛を中心に、その島流しを作意した悪党たちの動きが色々とからんで、最後は”風” がバッサリ。最後に正義の味方が出てくる所は、”ウル卜ラマン" も”風”も大同小異だった。私の予定された最終回だったので、松田監督の推薦もあり京都在住の脚本家鈴木生朗氏の台本を使った。

 "風"シリーズはこれが二クールギリギリだったが、あと一クール以上、延長が決った。しかし、TBS出向の監督はここで東京に戻ることになった。まあ、局を背景に出て来た監督は、虎の威を借る狐よろしくブロダクションには受取られ、あんまり健全な形態とも言えなかったと思う。下請の側としては、局から送り込まれたスパイのようにも見えたろうし、ブロダクションの意志も通りにくく、このあたりの行き違いも、この制度が育たなかった理由と言えそうである。しかし、スタッフの段階ではそんな色眼はなかったと思う。ある程度、その辺りの空気も察していたし、テレビ映画では助監督の一本立も仲々難しいので、この回は全面的にチーフの深田氏を押し出そうと思っていたが、これには局の方で"余計なことをするな”と反対が入った。そして、結局、四本目の”風”と取組んだのだ。この撮影中、TBSは春闘の真最中で、しばしば時限ストの連絡が長距離電話で入って来た。何しろ監督だけが遠く離れた東京の組合の指令でストに入るのだから、京都のスタッフもびっくりである。私は指令に忠実に仕事を放棄して撮影所の庭で日向ぼっこなどをしたが、月に本数を稼がなきやならないスタッフはイライラである。この辺りにも、釈然としない矛盾があった。このこと等を含めて、組合とも協議したけれど上手い解決策は見出せなかった。

 この作品では、親子移動、円型移動、クレーン移動等、京都で培われた移動技術を習得させて貰うべく、カメラワークを派手にした。撮影は町田敏行氏だった。移動を色々と披露してくれたのは、今は亡き小林進さんだった。彼の技術も忘れえない。この”風”を通じて、京都のスタッフとつながりが出来た。そのつながりの大部分は、自主制作に結実し最近の私の映画にも到っている。(とりわけ録音の広瀬浩一は、私の自主制作のすべてにかかわっている)

 

***

 

 陽春に私は東京へ戻ってきた。そして、円谷プロに復帰した。また、ウルトラをやることになった。

 『ウルトラセブン 第四惑星の悪夢』

 脚本、上原正三。撮影に永井仙吉氏。脚本の上原さんは、金城氏と共に円谷プロの企画室を支えていた。再び宇宙人ものにもどるのも何となく気が重かった。そこで、成るたけ特撮抜き で処理出来るものを注文した。警備隊の宇宙ロケットが軌道を外れ、第四惑星なる地球と瓜ふたつの星に不時着する。空気があり、人間がおり、地球そっくりの生活がある。はじめは地球の何処かに不時着したのかと思っていたが、その星には四つの月があった。そして、次第にその星の異様な恐怖政治が明らかになる。完全なる独裁体制で、ロボットの支配する星だった。人間たちを殺りくするロボットのTV番組もある。こんなお話で、最後にウルトラセブンが登場したと思う。

 この頃、円谷プロのスタッフにはウルトラシリーズ初期の熱意もなく、ウルトラセブンも終りに近ずいて制作部は終戦処理ばかりを考え、テレビ映画の悪ズレしたスタッフが多く入り込み、技術も低下していて、かなり、ひどい状態だった。京都のスタッフ達と充実した時間を過して来た私には、プロダクション全体をおおうダルな空気が耐えられなかった。子供たちに良質の夢を届ける筈だった理想は消し飛んでいた。この回の特撮セットを訪れて、第四惑星のロケット基地を見た時、私はびっくりした。そこにはきちんとデザインされたロケッ卜の作りものがなく、ただ、注射器、浣腸器の類が立てられていた。フル•ショットはこれで充分、という特撮スタッフのあきれた思い上りだった。子供をナメチャいけない。予算の故だと弁解してたが、イメエジの貧困にすぎなかった。

 

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『ウルトラセブン 円盤が来た』

 この本は私自身で書いた。天体望遠鏡で星を見るだけが楽しみのモテない青年のお話だった。ある夜異様な星雲を見つけ、 警備隊へ連絡するが一素人の通報とて相手にしてくれない。彼 は地球の危機を近所中にふれまわるが誰も相手にしてくれない。 町のつまはじきとなるが、一人の少年が彼の話を真剣に聞いてくれた。実はその少年が宇宙人だった。例によって、ウルトラセブンの活躍があり一件は落着だが、危機の最初の通報者である青年は一転して英雄となる。しかし、直ぐに皆から忘れられ、ただの工員に逆戻り、といった結果だった。

 成るたけ、特撮部分を少なくしようとして書いた台本だった。 以前ウルトラマンの頃なら、特撮部分の少ないことを、特撮班は怒ったものだった。しかしこの頃では特撮が少ない台本を喜ぶような有様だった。

 美術デザイナーの池谷仙克が、サラダボウルを二つ重ねて円盤にした時、私は怒る気力もなかった。第一この頃のウルトラセブンでは、さまざまなものが宇宙や大空を飛んでいた。水中翼船のプラモデル、ガラス鉢、皿、等々……クリスタルカッ卜のサラダボウルなど良心的な方だったかもしれない。しかしこの作品の出来栄えは、推して知るべしだ。ただこんな出会い方をした美術の池谷仙克とは以後ずーっと仕事をするようになった。『歌麿』に到る私のすべての映画の美術は彼の担当である。

 

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 二本のセブンが終って、私は京都に戻った。局の有給休暇を使い、はじめて自主制作の短編映画を作った。『宵闇せまれば』がそれである。これは元来、大島監督が東京12CHのテレビドラマ用に書いたものだ。そのテレビ用台本をそのままフィルムで撮った。”風”を作つた京都のスタッフと楽しい製作期間を過した。この短編が機縁で、当時新宿文化の支配人だった葛井欣士郎さんと識り合うことが出来た。そして、ATGと提携作品を作る話がはじまつた。

 こんな形の自主制作をすることに、局は服務規定をタテにうるさいかと思ったが、当時の映画部長平山氏に呼ばれて、「また やりたくなるんでしょうねえ」とだけ言われた。そう言われた時には『無常jの企画に入っていた。いずれ近い将来、社員かフリーかの選択をしなくちやならないな、と部長の顔を見ながら、私は考えていた。

 

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 確か夏にセブンのシリーズは終り、ひきつづき日曜夜七時は円谷プロが担当することになり『怪奇大作戦』という番組に変った。但し、今度は怪獣も出ず、宇宙人も出ず、変身もなく、怪奇現象と結びついた犯罪に科学捜査のメスが入る、という企画だった。従って、特撮と本編の二本立スタッフ編成にもならなかった。

 新企画になって、円谷プロのスタッフ達は、長かった怪獣ものの季節が終り、別のファィトを燃やしていた。私はこの番組 もひきつづきやることになったが、今回は決してセブン後半の轍を踏むまいと心に誓っていた。気に入らなきゃ、絶対妥協するまいと思っていた。そして残暑の頃、『怪奇大作戦 恐怖の電話』を作ったと思う。

 脚本、佐々木守。音楽はこのシリーズ全体が山本直純さんだった。レギュラー出演は、原保美、勝呂誉、岸田森、松山省二、小林昭二、他。

 今思い返してみると、こんなテレビ映画の作り方は夢物語だ。それも、恐らく私が局からの出向監督だから我儘放題に出来たのだと思う。皺寄せは他の監督たちに行っていた。そのことに気づいてはいたが、私は気狂か子供のように妥協しなかった。兎に角、何と思われようと、"自分の想い"を貫こうと決心していた。人には誰しも花の時がある。演出にしてからがそうだ。怪奇大作戦こそ、私の花の時じゃなかったか、と思えてならない。後年、自主制作の映画を自分なりのテーマで撮った時も、もっと妥協しながらものを作っていたと思う。

「恐怖の電話」は、電話を利用した連続殺人の謎に特捜班(SRI)が挑むお話だった。その裏には、戦争の傷痕が隠されていた。この犯罪を特捜班が解明してゆく筋道は、空想的な仕掛けを記録的に実証的に、"さもありそうに"追っかけた。成城の電話局に入り込んで徹底的なロケをした。音の周波数を確かめるくだりでは、セッ卜を拒絶して、コロンビアの無響室に迄入った。やるべきことは、きちんとやるという建前で撮影も長くかかった。夜間ロケをしていたら、いつしか周りは明るくなっていた経験もある。円谷プロの若いスタッフ達は、セブンの時とは別人のようだった。撮影は稲垣涌三、美術は池谷仙克、照明は小林哲也、F(フォーカス)をとっていたのが、最近私のカメラを回し続けている中堀正夫だ。この回のDBの折、音響効果の小森護雄と知り合った。「恐怖の電話」放映の折は局のテレシネに入り込んで、放送時の暗部再現のテストをやり、細かくシーンごとに調整をして貰った記憶がある。この頃迄は局のテレシネも親切な所があったのだ。

 

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『怪奇大作戦 死神の子守唄』

 脚本、佐々木守。放射能被災で白血病の妹を救おうとする兄のひきおこす犯罪のお話で、白眉は絶望的な兄を、どぶ鼠のように追いまわす警察権力の姿だった。結末には何の救いもないが、実に鮮烈な脚本だったと思う。その兄は平野大悟、妹は深山ユリが演じた。脚本の佐々木守も満足していたから、かなり良い出来だったんじゃないかと思っている。「恐怖の電話」同様、一切妥協しなかった。今じゃ全く考えられないが、かなり長いシーンを画調から判断してそっくり撮り直したこともある。 夕景狙いで、顔にはシネキンでオサエをあてたのだが、やや浮きあがったのが全く気に入らなかったのだ。こんな撮影をしているうちに、スケジュール上次の班のクランク•インとなり、撤収班と称して少人数で納得ずくの撮影を続けた覚えもある。犯罪の折に歌われる”死神の子守唄”は、山本直純さんの新しい作曲で、哀調を帯びた素敵なものだった。もっとも、私がかなり頑張ってものを作れたのも、その時の映画部プロデューサー橋本洋二氏の理解と後援があったからだ。また、絶えず一緒に出向していた先輩の飯島敏宏さんが大人で、尻拭いをしてくれていた。飯島さんには何かと世話になり、退社する折、未精算の伝票も随分助けて貰った。我家にカラーテレビが入るのが遅れていたので、大晦日には必ず”紅白歌合戦"を見せて貰ったりもした。

第9回【昭和四十二年】1967

 

 この年もウルトラマンの演出ではじまった。

『ウルトラマン 怪獣墓場』

 ウルトラマンが宇宙空間に葬った数々の怪獣が浮かばれず彷徨っているという設定で、骨だけの怪獣シーボーズがその墓場から地球に落ちてきて騒動になるお話だった。この怪獣にも、ある種の凄味をもたせたかったのだが、言うも愚かしい形に仕上ってしまった。その上、私に対する特撮班のいやがらせか、シリアスであるべき怪獣は漫画的な振付で、怪獣に仮託した鎮魂の主題は滅茶滅茶になってしまった。ウルトラマンに手を引かれて荒野をゆく怪獣がダダをこねたり、立小便したりするのを見て、私は決定的に特撮班に絶望していた。

 もう、特撮の馬鹿馬鹿しさを逆手にとるしかないと考えて、次の『ウル卜ラマン空の贈り物』を作ったのだ。

 ただ矢鳕に重いというだけの怪獣が、ある日空から落ちてくる。これを宇宙へ返す為に、科学特捜隊とウル卜ラマンがさまざまな方法を試みるというお話。しかし筋らしい筋はなく、怪獣を葬る作戦を羅列して画にしてあるだけ。怪獣にはスカイドンと名付けた。怪獣の肛門にロケットを仕込んで打ち上げても、重みで上がらず、肛門から水素ガスをつめ込んで風船怪獣にしても、自衛隊の余計なお節介で逆戻り、といった按配で佐々木守のあの手この手はひどく面白かった。矢鳕と怪獣の肛門を狙う故か、筋らしい筋がない故か、放送前にこのシリーズを手懸けてはじめて「わかりにくい」とか「えげつない」とか部長達に注文をつけられた。しかし、兎に角、この年、関東地方異様の雪害で、ストックも底をつき、無事放映された。何のことはない、終ってみればこの作品が私のウル卜ラマンの中で一番評判が良かった。

 この年の初夏に、岸恵子さんが里帰りすることになり、その時期に合せて、急據六本の単発ドラマが作られることになった。製作会社は国際放映で、岸さんが六通りの女に扮するシリーズで『レモンのょうな女』という通しタイトルが決った。一時間もののテレビ映画で、モノクロだった。編成の好漢磯崎洋三氏を中心に脚本が準備され、円谷さんと半々で担当することになった。

 この時、私の所に回って来た最初の脚本は田井洋子さんの書下ろしたもので、確か画材屋を経営する女の話だった。しかし、これは帰国した岸さんとの打合せでキャンセルとなり、磯崎氏と私は大アワテで次の脚本を探しまわった。もう放映日から逆算して、新しい脚本を依頼する時間もなかったのだ。その時点で、既に私はロケハンの段階に進んでおり、西荻窪に主たる舞台の画材屋も探してあったのだ。このピンチは、たまたま岸さんと親しい映画プロデューサー市川喜一さんの好意で回避することが出来た。同氏が今井正監督と作る予定だった泉大八原作脚本の「アクチュアルな女」を提供して下さったのである。しかし、何せ映画用の脚本なのでテレビ一時間には長すぎるし、テレビ用の脚色も必要だ。泉大八さんの御好意で、テレビ用に勝手にテキストレジイさせて貰うこととなった。この作業は、他人に頼む時間もなく自分でやった。題は「私は私——アクチュアルな女より——」とした。このシリーズを通して音楽は冬木透。 この回は作曲をせず、モーツァルトのディヴェルティメントK136を使用した。撮影は秋元茂氏。美術の朝生治男さんが、シリーズを通して良いセッ卜を組んでくれたことを想い出す。

 株に手を出す破格の女教師の話であるが、その恋人役には高橋幸治さんが出演した。何せ準備にも時間がなく、あわてて作った故か、そう肩に力も入らず、まずまずの出来だったと思う。 しかし、今井監督の手で映画化が実現していたら、私のようなケレン味もなく、傑作が出来上っていただろう。惜しいことだ。

 

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『レモンのような女 燕がえしのサヨコ』

 風のように現代の巷を吹き抜けてゆく女スリのお話で、いつもキラリと光った挑戦的な眼が人の心を見抜く。彼女とモッサリした男の出会いと別れ。その一瞬、一瞬の虚空に花開くメルヘンの花火。田村孟さんの脚本は、相も変らず冴えていた。音楽は、メイン•テーマにモーツァルトの魔笛を変奏して使った。 出演は伊丹十三、原保美、女スリの舎弟になべおさみ。バアのマダム役で戸川昌子さんが顔を出してくれた。この回は自分では良い出来だと思ったが、放映後田村さんに「ナメの構図はやめた方が良い」と言われて恥入った。この言葉はかなり胸にこたえた。従って、人と人との客観ポジションに入る以外、無用な物ナメの構図には、以後神経を使うょうになった。そう言えば、この頃未だ東京の銀座には都電が走っていた。深夜、そのレールに沿って銀座四丁目から新橋迄の移動カットを撮った。そのラスト•カッ卜も、今や遠い昔の出来事である。

 

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『レモンのような女』の三作目は、佐々木守の脚本だった。題は「夏の香り」この頃、佐々木守はイルカの知能指数に凝っていて、はじめはイルカの調教師であるナゾの女の話を書いて来た。題して「イルカに乗った女」。しかしこれは実現に到らず、またまたスケジュールがきつくなった。そこで急據生れたのが「夏の香り」である。佐々木守は、本当に凄い男で、速筆のうえに次から次へと色々な話を作り上げていった。

「夏の香り」は、ある女のある夏の一日を追ったものだった。 その女は歌手。彼女中心の楽団解散の日。ささやかな乾杯。彼女の年下の恋人との別れ。……彼女の記念すべき日に、二つの重なった解体。若い恋人の残した胎内の子。しかし、診断の結果は想像妊娠だった。スケッチ風に、ある女の一日のエピソードを追い、東京郊外の夏の日常にいろいろな人間を発見し、暗い事件を扱っても脚本の筆致は明るく、爽やかだった。

 この回を撮影する日数は放送から逆算して、ギリギリ五日。 天気にも恵まれたけれど、何の卜ラブルもなく、ロケは爽やかに信仰した記憶がある。私も衒いを捨てて、カメラをのびやかに解放し、あれこれと構図を指図したり、ファインダーを執拗に覗くこともやめた。五日の許容範囲にはそれなりの方法を、と思い、特に日活から借用した長い移動車にカメラをのせっ放ししにして、カットを細分化することも止めた。前作のカメラ・ワークや構図とは正反対の作品が出来上り、自分では満足していた。尚、若い恋人役には石立鉄男が出演した。

 これで、私の担当分三本は出来上ったのだが、最後の回はどう考えても放送に間に合うスケジュールがなく、関係者各位鳩首会談の結果、オムニバスに分割して十五分ものを三本作ることになった。それにしても、脚本を書く日数も殆んどない。飯島監督が加わって、それぞれ撮影一日、ワン•シチュエーションで何とか放送に間に合わせた。勿論、私は速筆の佐々木守に依頼した。

 それが「そばとオハジキ」岸さんとは関係なく、若い下町の恋人同士のちょっとした行違いをスケッチしたものだった。斎藤憐と原田糸子が出演した。間に合せ用にワサワサと撮影したことだけを覚えている。

 この年は、私にしては結構忙しい年だった。監督稼業は軌道にのり、おまけに長女も誕生した。これは余計な話。扨、レモンが終って、坂の上の国際放映から、坂を下った円谷プロへ戻った。今度はウルトラマンの後企画ウルトラセブンだった。

 

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 『ウルトラセブン 狙われた街』

 脚本は金城哲夫。あなたの隣にも宇宙人がいるといった主題。日常的な生活の場に入り込んだ危機を描いていた。宇宙人が変身した後も、汚い和室六畳のアバートにいるという描写を、プロデューサー側からは注意された。「こういう手のドラマは、成るたけ洋室にしてくれ」と言われた。奇妙な話である。

 セブンのシリーズは音楽が冬木透。この回の撮影は福沢康道氏だったと思う。変身する以前、つまり宇宙人が人間の姿を借りている時には、仲々シリアスな展開だったが、変身したらドラマもへったくれもない。宇宙人の形については、縫いぐるみの限界をウルトラマンで確かめていたので、もう余り注文もつけなかった。この回の宇宙人の名前も想い出せない。何やら、長靴の化け物のような姿だった。

 

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『ウルトラセブン 遊星より愛をこめて』

 脚本、佐々木守。撮影、福沢康道。

 人間の血を吸う宇宙人が登場した。と言ってもドラキュラ風 のドラマではなく、放射能汚染で血液の濁った惑星から、綺麗な地球人の血を求めて宇宙人が来るというお話だった。この宇宙人は手口が巧妙で、女と恋愛をしその心を溶かし、時計をプレゼントする。その時計に血液採取の仕掛けがあるというもの だ。福沢氏が凝りに凝ッて、綺麗な画面の連続だった。途中はある種の青春ドラマのようなパステルカラーの色彩だった。超望遠で夕陽と人物を狙うラストカットなど福沢氏がねばったが、とうとう幾日過っても夕陽に恵まれず、夜間オープンに大容量のライトを使って撮影した。

 円谷プロの制作部では見せしめの為に、フィルム使用量と撮影日数のグラフを作り、以後各監督の能力を一目瞭然で比較出来るようにした。早くも、テレビ映画の世界も厳しくなって来たのだ。この回の宇宙人の名前も覚えていない。全身に毛細血管の浮き出たイメエジを打合せしたが、出来上った縫いぐるみはまるで繃帯まきのミイラ、恰もミシュランのゴム人形のような感じだった。

 更にセブンのシリーズを担当する苦だったが、急に時代劇を撮ることになった。しかも京都で。

「京都の撮影所はコワイぞ。お前なんかグダグダ言ってたら翌朝鴨川に浮いちまうよ」と円谷さんにおどかされ、からかわれた。

 水曜日、八時の新シリーズで、栗塚旭主演『風の新十郎』という番組だった。当時、栗塚氏はNETの人気番組の主演者。彼をTBSゴールデン•夕イムに連れて来るには色々と卜ラブルもあったらしい。何か、新番組の会議も歯切れ悪く、太い芯が見つからぬまま、スタートという具合だった。でも、兎に角TBSからは飯島さんと私が監督で、京都松竹へ行くことになった。もう、この年あたりになると局の方針として社外出向監督を養成する気持もなくなっていた。テレビ映画の演出家は、外部にいくらでもいるという訳だ。だから、映画部の四人の監督は局内で宙に浮いたような存在だった。勿論、演出部のディレクター達も、社外出向になることを誰も望まなかった。東京のプロダクションならまだしも、京都の撮影所へ出向とあっては、まるで糸の切れた風である。私は局から見離された侘しさを感じなかった。むしろ、全く管理されない場所に来たことで活き活きとしていた。局の社外出向監督についての方針などどうでも良かった。合理化の迫った演出部員達の将来も関係ない場所だった。おまけに多額の出張雑費、日当、交通費の差額分を持っていて、京都暮しは天国だった。何年か後、局を止めて自主制作に没頭しはじめると、京都暮しは地獄になった。これは余談か。

 

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『風 走れ新十郎』

 脚本、佐々木守。音楽はシリーズを通じて冬木透。このシリーズはモノクロの一時間ものだった。はじめは「百合姫ぶるうす」という題だったが、何故かこんな陳腐な副題になった。ワイラーの映画『ローマの休日』に似たお話。つかの間の自由を楽しむ籠から放たれた小鳥のようなお姫さまと下賤の男の出会い。そのお姫さまをとりまく藩内部の陰謀と怪盗”風”の活躍といった内容だった。お姫さま役の左時枝さんとその相手をやった清水紘治さんのコンビがとても良かったと思う。はじめて京都の撮影所で働いた時の驚きは、伝統に支えられた技術を持ったしっかりしたプロの多かったことだ。そこに、私は時代劇素人の捉われぬ眼を持ち込んだが、案ずることもなく 直ぐス 夕ッフと連帯出来た。しかし、この作品は良い気になって尺の計算を忘れ、随分長くOKを撮った記憶がある。編集の天野氏がフゥフゥ言って尺ヅメをしたものだ。撮影は西前さんだった。

 

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『風 絵姿五人小町』

 脚本、佐々木守。暮に撮影した。底冷えのする師走のオープンで、ガ夕ガ夕とふるえながら仕事をした。"風"シリーズでは、メインの監督だった巨匠松田定次監督にお世話になった。 時代劇のルウティンを教えて頂き、防寒具迄頂いてしまった。

 抜荷買いの商人と結託した大名、そこに出入する悪徳絵師。お話は羽子板に描かれた美人達が頻々と消えるところからはじまり、絵師の裏を新十郎が探り、悪のからくりを暴くといったものだった。比較的、佐々木守のものとしては類型的な時代劇だが、これには訳がある。彼と用意した、江戸の若者風俗を奔放に描いたシナリオがキャンセルされたからである。原保美、八木昌子、真理明美、他が出演した。撮影は木下富蔵氏。当初予定されたものがキャンセルされて、余り意気あがらず、余り記憶もない。けれども局に帰ってみると、局長に呼ばれて大いに賞められた。私としては訳が解らなかったが、映画部のエラ方も皆なニコニコ顔。局長日ク「家のお手伝いさんがひどく面白いと言っていた。だから大衆受けもした筈だ」勿論、この時はもう大森局長の時代ではなかった。

「はア、……」と返事して局長室から戻って来たが、実はその局長宅のお手伝いさんの批評は局内で有名なことだった。京都に居たから無知だったわけ。廊下で、並木にぽんと肩を叩かれて「お前、局長のお手伝いさんに、お歳暮を送った方が良いぞ」と言われた。並木はゲスゲス笑って「これから準備稿をお手伝いさんに見て貰えョ」とつけ加えた。

 

ウルトラマン
ウルトラセブン
怪奇
宵闇せまれば

第11回【昭和四十四年】1969

 

 この年も京都暮らしではじまった。怪奇大作戦は別名タイアップ大作戦と言い、地方の旅館や遊園地等と結んで撮影をすることが多かったのである。これは一時期のテレビ映画の特徴だ。私は旧年中に関西を舞台にした脚本を用意して、制作主任と関西へタイアップ交渉兼ロケハンにいったりしていた。し かし、この話はまとまらず、一時製作中止となったが、橋本プロデューサーの熱意で、二本の怪奇大作戦を円谷プロの更に下請けで京都映画が作ることになったのである。東京からは少数のメインスタッフだけがのり込んだ。

 

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『怪奇大作戦 呪いの壺』  

 脚本、石堂淑朗。

 ある陶工の弟子の青年がひき起す犯罪を扱ったもので、屈折した心理と美意識が描かれていた。この脚本の前に、石堂さんは「平城京のミイラ」という寧楽の都を舞台にした壮大な脚本を書いた。それも面白い本だったけれど、モノにならなかった。 お金の問題じゃなかったかしら?今では何の理由で、その脚本を捨てたのか思い出せない。しかし「呪いの壺」も良い本だった。もっと拡大して大人向けのドラマにしたい位だった。屈折した青年には花の本寿さんを起用した。今野勉が作った”七人の刑事”の数ある傑作の中でも一、 を争う作品に花の本氏が出演していたのが、眼に焼きついていたからだ。

 

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『怪奇大作戦 京都買います』

 脚本、佐々木守。音楽は、この回だけソルの"モーツアルトの主題による変奏曲"を使った。あの"ギ夕ーのおけいこ"などでポピュラーな曲である。準備稿のタイトルは「消えた仏像」だった。それでは余りにも直接的なので、放送前にタイトルを変更した。「消えた仏像」という当初の題のように、京都市中の有名寺院から頻々として仏像盗難が起きるという犯罪を扱った。文化財に愛着を持たない国と自治体と市民と観光客に絶望してある歴史学教授がその若い女の助手と、山中にユートピアを作り仏像を安置しようとたくらむお話だった。そして、この事件を追う特捜班の一人が若い女の助手と恋に陥ることでお話はメロドラマのように進展した。

 この佐々木守の脚本は素晴らしかった。但し、やや長かった。というのも、前の年に映画部で芸術祭ドラマを作るという案が持ち上がり、円谷さんか飯島さんが撮る筈だったが、二人共利ロだから芸ドラには消極的で結局沙汰止みになった。その時、幾つかの企画が出来、シノプシスが纏まったが、その中で最有力だったのが佐々木守の書いた『あをによし』という奴だった。奈良を舞台にして文化財が次々に消える話で、宇宙人が地球の文化財を根だやしに買い取ってゆくスケールの大きな寓話だった。この発想を捨てておくのは惜しいと思い、私が京都を舞台に書き直して貰ったのが「消えた仏像」である。しかし、長時間の芸ドラ用に発想していたので、アイデアの縮小も難しく、やや長めの台本となってしまった。尺出しの編集に、ひどく苦労した覚えがある。「お前は余計なものを撮りすぎる」と、いつも佐々木守に怒られるのだが、この回に限っては脚本が長かった。

 主演は斎藤チヤ子だった。

 観光映画のように京都中の寺をロケして歩いた。万福寺、平等院、黒谷、東福寺、智恩院、銀閣寺、光悦寺、源光庵、 尊院、祇王寺、念仏寺、常寂光寺、仁和寺、広隆寺、等……たかが二十三分のドラマにしてはぜい沢なロケをしたものである。今、ふり返ってみると、私も色々なものを手懸けているが自分ではこの作品に一番愛着を抱いている。この時の私はうまく言えないが、"やさしさ”を持って、ひとやものを見ていたように思えるからだ。

 

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 怪奇のシリーズが終ると、円谷プロのスタッフ達は解散した。小林哲也氏を筆頭とする照明の連中は現代企画なる会社を作り、池谷仙克を筆頭とする美術スタッフはNIDOなるグループを作った。その他にも、いろいろな小グループが生まれて、それぞれの生活防衛に入っていった。円谷の技術の良き伝統を受け継いだ若い有能なスタッフが四散するのは耐え難く、当時特撮監督をやっていた大木淳吉などと相談した結果、せめて共同の電話連絡場所ぐらいは作り、スタッフをつなぎ止めようということになった。このことを池谷にも相談した所、その賛同を得、NIDOを発展させて、コダイ•グループという名の集りを持つことになった。フリースタッフの連絡場所としてのコダイ・グルーブは今も続いている。仕事があったら電話を頂き度い。 ……まア、ちよっと脱線したが、このグルーブを維持してゆく為に、いろいろと仕事をする必要があった。そこで、私は局に内緒のアルバイ卜に精を出すことになったのだ。電通にいる友人たちが色々と相談にのってくれた。お陰で、CMやPRの仕事がやや軌道に乗り、スタッフ達は何とか生活をしてゆくことが出来るようになった。しかし局の社員である立場と、スタッフ・グループぷを維持してゆく立場が両立する筈もない。私は次第にフリーになる意志を固めたのである。この頃には局内の制作態勢合理化の嵐も激しくて、演出部にもさまざまな動きがあった。吉川からテレビマンユニオンを作ろうと勧誘を受けた のもこの時期のことだ。私はテレビ映画のスタッフ達と奇妙な連帯感で結ばれていたし、ATGで第一回の長編劇映画を撮ることも、葛井欣士郎さんの奔走で決っていたので、全く単身TBSを出ることに決めていた。そして、CMの仕事に精を出していた。余り、出社もしなかったし、クビになっても文句を言える状態ではなかった。そんな私の社員としての弱みを握ったのが並木章である。

 夏のある日、並木に電話で呼び出され、私は局に出向いた。この頃は良い加減に出勤簿の線を引きにゆく他、出社していなかったのだ。並木は配転で映画部のプロデューサーになっていた。

「お前の勤務状態はアキレルばかりだ。今度、俺のやる番組を演出しなかったら、部長にバラすぞ」と、並木はニヤニヤして いた。そこで仕方なく、彼のブロデュースする新番組を二本だけひき受けることにした。当時、"オーモーレツ"のCMで有名になった小川ローザが主演する番組で、国際放映製作の『Oh! それ見よ』という代物だった。スカートこそまくらないが、CMの世界を舞台に、小川ローザがスタィリスト役で活躍するもので、時代を先取りしようとする並木の意気があらわれた企画 だったと思う。音楽にもCM界の大御所小林亜星氏を使い、タイトルバックもCMの監督に依頼していたと思う。しかし、視聴率はサッパリだった。兎に角、この番組を二本ばかり引受けて演出したのだが、結局これが私のTBS社員時代の最後の作品となった。小山内美江子脚本のものを一つ、福田陽一郎脚本のものを一つの計二本である。他のレギュラーとしては杉浦直樹や松山省二が居た。

 この二本についちゃ、覚えていることが殆んどない。第一、二本の副題もすっかり忘れてしまっている。番組自体もニクール持たなかったのじゃないか。今はハッキリ思い出せないが、私の演出態度も良い加減で、出来具合も良かろう筈がなく、適当に自分で遊べる所だけは遊んでお茶を濁してしまった。完成試写迄、部分的にもカラーラッシュを見なかったのはこの作品がはじめてだし、以後も自分の撮ったラッシュに、それ程無関心だったことは絶えてない。

 試写室から出てくると並木に摑まった。彼は色々と文句を言いたかったらしいが、言いたいことの多さに言葉が纏まらず、「バカ」と呟いた。

TBS社員時代最後の作品
『Oh! それ見よ』台本

「私のテレビジョン年譜」は昭和四十五年〜五十二年までを第12回としてまとめた。

ここまでが「闇への憧れ」(創世記刊)に掲載されたものである。

 

【昭和四十五年】1970

 

 この年の二月に、TBSを退社した。僅か六十数万円の退職金は、映画『無常』に注ぎ込んで消えてしまった。局では、私は並木とロッカーを共用していたが、"早くお前の荷物を片附けろ"とうるさかった。TBSを止める際には、電通の友人達が親切だった。友人のクリエーター鯨津裕氏など「俺はスグ偉くなるから、お前一人位大丈夫だ」などと良い加減な言葉を吐いていたが、ワラをもスガる気持の私はそんな言葉も信用していた。電通映画社の友人喜多村寿信プロデューサーも相談に行くと「どうにかなるんじゃないの」と呑気だった。そして、どうにかなるだろうと思って局を止めちまった。

 この年、映画『無常』を作った。そして、テレビジョンとは余り関係がなかった。日航ジャンボ機内で上映する短編映画なども作った。

 

【昭和四十六年】1971

 

 この年は、ATGで『曼陀羅』という映画を作った。夏の終りころ、TBSの橋本プロデューサーから声をかけられた。再び日曜の七時に怪獣ものをやるから手伝え、ということだった。 丁度、追いかけるように、フジテレビで同時刻に『ミラーマン』がスタートすることになり、しばらく鳴りをひそめていた怪獣の季節到来だった。TBSのものは『シルバー仮面』という夕イトルで、宣弘社の製作、超人は巨大化せず、地球を侵略する異形の宇宙人と闘うことになった。宇宙人の主たる目標は、レギュラーのなんとか博士一家(名前を忘れてしまった)の持つ光子ロケットの秘密だった。宣弘社と現代企画が提携し、コダイ•グループのスタッフも加わるという形でスタートした。奇妙なことに、旧円谷プロ子飼いメンバーの大半がここに居た。

 一方の円谷プロ『ミラーマン』の方は、新しいスタッフが多かった 結果的には『ミラーマン』に軍配が上った。その主たる原因は、私が一、二作目の演出をしたことにあるかも知れない。 一話完結の単発ではなく、お話はひきつづきのものだった。

 私のやった第一話、第二話とも佐々木守の脚本だった。制作会議の席上から『シルバー仮面』には、仲々一本の太い芯が見つからなかった。ドラマを優先させるのか、それとも超人のレスリングを優先させるのか?.......佐々木守の脚本も、そういった企画のぐらつきを反映していつものような冴えがなかったように思える。それは、そのまま私の演出にも影響してしまった。イメエジが奔放に開花することもなく、得体の知れない性格の番組となった。言ってみれば、怪獣ものをATG映画の調子で撮ったような奇妙なものが出来上ってしまったのだ。大失敗。 それでも、放映前の試写会では大好評だった。

「素晴らしい。ここには何かがある」などと宣弘社の小林社長が言っていた。しかし、高視聴率だけが欠けてしまった。そこで二作目以降は鼻もひっかけてもらえなかった。折角、声をかけてくれた橋本プロデューサーに一番申し訳ないことをしてし まった。今度、こういった機会が訪れたら、明るく楽しい奴を作って恩返しをしなくちゃならない。私は早々と二作目で引き下ったけれど、コダイ•グループのスタッフ達も意気軒昂としていて、"表現上の問題で意見が合わない"と、皆ワンクールで 番組をオリてしまった。この番組で、私の行ったせめてもの功徳は、長年一緒に仕事をしてくれた佐藤静夫君を監督にしたことぐらいだった。彼の力を信じた私の眼は間違っておらず、彼の作ったものが『シルバー仮面』の中で最高の出来となった。

 

【昭和四十七年】1972

 

 この年も、たかが一本のATG映画に明け暮れた。『哥』という映画がそれである。自主製作か、はたまた生活か、ということでコダイ•グルーブも雲行きが怪しくなり、一時はバカバカしいから解散という所迄行った。しかし、撮影部の中堀正夫や 猪瀬雅久のやる気と、演出部の下村善二の北陸人特有のねばりで、グルーブは危機をのりこえた。これは内輪の話だが、兎に角そんな状態で一致団結して作ったものだけに、この映画には愛着がある。この年は、小池一夫さんから劇画『首切り朝』の映画化承諾を貰い、御本人自ら脚本も書いて下さった。しかし、 ATGに資金がなく、東宝との提携も上手く行かず纏まらなかった。私が主役に清水紘治を固執したのもポシャった原因の一つかも知れない。まア、没になった企画の話は、テレビ、映画を通じて他にも山程あるので、これ以上書くのは止める。何となく映画の話にふりまわされた一年だったが、テレビマンユニオンの要請で一本だけテレビ番組を演出した。

 

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『遠くへ行きたい 歩く』

 これは早春に撮影した。構成も語りも自分で書いた。大和路を横山リエが歩くもので、ごく普通の紀行番組には上った。しかし、出来るだけ絵葉書の羅列のように一杯つめ込んでやろうと思った。竹之内街道から 上山へ、それから当麻寺を抜けて飛鳥へ、北へ上って、平城宮跡へというコースを取った。

 

【昭和四十八年】1973

 

 フリーになってからというもの、映画を作ることだけで一年一年が過ぎていった。その間にはスタッフと定期的にCMの世界で生きており、仲々思うようにテレビ番組に参画出来ない。 テレビ番組は自主製作という訳にも行かず、これといって注文も来なかったので、手を染める術もなかったのだ。

 ただ、この年はテレビから奇妙な注文を受けた。NTVの梅谷茂ブロデューサーが『子連れ狼』のタイトルバックを作ってくれというのである。小島剛夕氏の原画をあれこれと工夫して撮影した。まア何とかサマにはなっていたのじゃないかと思う。このタイトルバックの仕事は、同じ枠で後二回注文を受けた。いずれも梅谷茂さんの差し金である。五十年に『長崎犯科帳』(これはオープニングと後タイトルの両方だった)五十一年に『続・子連れ狼』何事も最初にやるものが評判は良いもので、

あとは何となく尻つぼみの感があった。『長崎犯科帳』のオープニングの場合は実際の風景だけで構成したが、一分間に数コマの細いカットをつめ込みすぎて、「見ている婆さんがひっくり返る」と文句を言われた。そこで『続•子連れ狼』は初回同様のイメエジに戻した。

 タイトル•バックついでに言えば、この仕事も大変面白いということが解った。梅谷さんに感謝しているが、時々奇妙な注文が来るようになって困る。その最たる例は悪友並木章の依頼だ。

「中味は無理だろうから、タイトル•バックをやらしてやるぞ」 友人と長く附合いつづけるには忍耐が要るものなのだ。

 扨、この年は、三年間たて続けに作ったので、自主製作にも疲れ果て、映画はお休みにした。もっとも企画が流れたのも原因だが、映画の年譜ではないのでここでは触れずにおく。そして、テレビ番組では、二本だけ『遠くへ行きたい』を演出した。

 

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『遠くへ行きたい おんなみち』

 これを撮影したのは秋風の吹く頃だった。桜井浩子が姫路をたずねるもので、構成は自分でやった。室津、姫路城、北条石仏、書写山等を平々凡々と歩いただけのものだ。

 

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『遠くへ行きたい さすらいの主題』

 この番組の前二作では旅する夕レントを画面構成上の単なるモデルかオブジェとして扱いすぎた反省もあり、この回は松本典子さん中心の旅を組むことにした。この旅は、かねてより念願の江ロ章子のふるさとを訪れたものだ。宇佐からはじまって、国東の香々地へ、江ロ章子の声が松本さんを導いてゆく構成にした。

 埋もれた青踏の女流歌人を尋ねる旅は楽しかった。豊後高田で短歌誌「げっしゅう」を主宰される村上富六さんとの対話を撮り、香々地では墓石なき江ロ章子の眠れる土に冥福を祈った。 音楽には、ハイドンのピアノ・ソナタを使用した。私の作ったものにしては珍しく抒情的で、しみじみとしたものが出来上ったと思う。

 江ロ章子のことは、その後、短歌誌「風炎」の主宰者であり、 『北原白秋研究』の著者である西本秋夫さんに色々と御教示を乞い、田村孟さんとも何回か話をして映画脚本を作ろうとした。 今に到るも、気持ばかり焦って、仲々結実していないが、いつか何らかの形で映像にしたいと考えている。

 

【昭和四十九年】1974

 

 ひきつづいて『遠くへ行きたい』の演出をした。

 丹波篠山へロケをした、『遠くへ行きたい 城下町』

 『飛鳥古京』『丹波路』等の著作で名高い岸哲男先生に御同行願った。ブロデューサー側で、色どりに女性も欲しいということで森秋子さんにも来て貰った。城下町篠山の姿だけを狙った。 町の方々の好意で楽しいロケが出来た。篠山城研究家の古老中山さん、丹波古陶館館長の中西さん、そして中西さんを中心とする青年会の方々。篠山の能舞台紹介も含めて、町を色々と撮り歩いたが、果して出来栄えとなると、私は一向に自信がない。作品ょりも、中西館長の蒐集品を見せて頂いたり、ロケ終了後宿舎で岸先生のお話を伺ったりしたことの方が、個人的な糧になった。篠山ゆかりの東京青山ロケの方は、ADをやってくれた岩垣保くんに撮って貰った。

 この仕事を終って、陽春に私は生れて初めての舞台演出をやった。日生劇場で、三島由紀夫作『癩王のテラス』を。これも 葛井欣士郎さんの操縦である。楽しい経験だったが、ここで触れる暇間はない。舞台というものは結構時間の食うもので、公演が終ってみるともう初夏だった。そう言えば、丹波篠山ロケの時は雪だった。

 

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『遠くへ行きたい あめのうた』

 詩人の富岡多恵子さんの出演をお願いした。富岡さんに室生 犀星のふるさとを訪れて貰った。この旅もひどく楽しかった。 金沢は年間降雨量の多い所、そして飴屋俵星のある町、という訳で"あめのうた"という題になった。富岡さんの言葉だけで番組を綴っていった。余り、誰かと対話する必要もないということなので、カメラの傍で私がお喋りのお相手をした。犀星の文学碑に抱きつけないか、等と随分無礼な注文を出したょうに思う。この旅も、ロケから帰って宿舍で富岡さんの話を伺う方が楽しかった。毎夜毎夜三時頃迄お喋りをして、毎日寝坊して遅く撮影に出掛けたことを思い出す。魅力ある女性とロケなどするものではない、とつくづく悟ったのだ。

 

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『遠くへ行きたい 非冒険者の旅』

 この回は上越市を訪れた。作家の吉田知子さんと旅をした。越後の親鸞旧蹟をたずね、吉田さんには得意のオートバイで、 越後の平野をかけ巡ってもらった。"非冒険者の旅”は、吉田さんのエッセイから借用した題である。この年、私は旅の同行者に大変恵まれており、番組を作ること以上に、出演して頂いた方と"旅をすること"の方が楽しかった。吉田さんと旅をした時は、当方の駄目さ加減を見透されている感じで、悔しくもあった。語りは御本人にして頂き、そのテキストは御自身のエッセイから引用して頂いた。

 この番組が終って、私は四作目のATG提携作品『あさき夢みし』と取組んだ。ふり返ってみると、この年は結構忙しかったのだ、と思う。

 そして、冬になって『遠くへ行きたい』へ戻った。赤座美代子さんに木曽路へ行って貰った回である。この回の副題をどうしても思い出せない。奈良井、藪原の宿場を中心に気軽なスケッチ旅行のようなことをした。最後に信州の道祖神をスケッチし、春を待つ山里の心を描こうとした。この回は余り天候に恵まれず五人編成の少数スタッフを、更にAB班に分割して何と かスケージユール内で纏めなければならなかった。従って、随分赤座さんには気の毒な想いをさせてしまった。私は実景を撮り歩き、インタビューを岩垣に演出して貰った。それで、どうにかこうにか三十分の番組に足るカット数を消化出来たのだ。

 

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 忘れていたけれど、この年、一本だけVTRの番組作りを手伝った。サン・オフィスの山口卓治プロデューサーの依頼で『ウィークエンド・クッキング』なる三十分ものの料理番組を演出した。と言っても、実際のサブ・ワークはレギュラー演出家の下村善ニにやって貰った。加山雄三さんの料理上手を紹介する回を担当した。この番組は科学技術館のスタジオで収録したのだが、夏だったか冬だったか、とんと忘れちまった。兎に角、加山さんの作ったチャーハンかバターライスを食べたかったことだけが記憶に残っている。

 この年は、久々にVTRのドラマを頼まれかかった年でもある。井上ひさし原作の『青葉繁れる』で、当時さっぱり視聴率 のふるわなかったTBS金曜日八時台だったと思う。やる気にはなって、古巣の編成部へ一、二度足を運んだ覚えもある。国際放映から話が来たのだが、準備稿が出来て制作打合せという段でオロサレてしまった。何の理由か確かめなかった。私はテレビ番組で、オロサレたり、ホサレたりすることには慣れているので、あっさりしたものだ。打たれ強いピッチャーのようなものである。このドラマを引受けたらADをやってくれる筈だった下村善ニに依れば、私の要求したギャラの故だったという。 そんなことはない。それとも、昔日劇中継やスタジオドラマをやった頃の評判が未だ当事者達のどこかで、亡霊のように残っているのだろう。だとしたら滑稽な話だ。

 

【昭和五十年】1975

 前年の暮から、沖縄海洋博の映画を、山ロ卓治プロデューサーと準備していて、正月早々に撮影した。これは阿部昭が、平家物語に材を得て書き下ろしたものだ。『藤戸』と言う。年頭は結構多忙で、同じく山ロブロデューサーと『雛人形』なるPR映画の製作準備もしていた。そこに、TBS映画部の新井和子ブロデューサーから番組の話が舞い込んで来たのである。『雛人形』の撮影は春ということだったし、ATG映画の借金もあったし、兎に角山ロ氏と私は色々と働く必要に迫られていたので、その話も引受けることにした。

 

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『歴史はここに始まる 救世軍』

 構成、岩間芳樹。レポー夕ーは岡村春彦。制作は国際放映だった。『Oh!それ見よ』以来の国際放映だったが、昔の光今いずこ、ただ美術の朝生さんだけが懐しかった。

 吉原で、救世軍山室大佐のインタビューをとったことが白眉で、あとは当時廃娼運動の直面した問題を、ドラマ風に再現しながら構成していった。過去の再現部分をモノクロで、現在をカラーで、と解り易い使い分けでつないだ。歴史ものというのは、私の趣味に合っているので、この撮影も楽しかった。

 

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『歴史はここに始まる 大正遁走曲』

 大正という時代の空気を卜ータルに捉えてみたいというのが発想で、本郷菊富士ホテルと竹久夢ニを核にして、色々な方のお話をつみ重ねた。この回は構成脚本を自分で書いた。

『本郷菊富士ホテル』を書かれた近藤富枝さん、最近『鬼の宿帖』を書かれた羽根田武夫さん、戸井田道三さん、幸田文さん、 神代辰已監督、『夢二慕情』の榎本滋民さん、そして明治の西洋館を専門に描かれる近岡善次郎画伯。三十分に収容し切れない程多彩な顔ぶれで、番組時間の制約が残念だった。榎本さんの小説をそのまま再現ドラマにしてみたが、科白が直ぐ喋り言葉として立派な対話になるので驚いてしまった。無声映画風の字幕と書体、活弁調の語り等、結構楽しく遊ばせて貰った。

 

【昭和五十一年】1976

 テレビマンユニオンの萩元晴彦氏を、私はかねがね尊敬している。TBS時代に良き先輩であった、というような理由ではない。先ず第一に、夏の甲子園のマウンドを踏んでいること。 第二に、天和をしていること。第三に、糖尿病にも拘わらず美人の女房を持っていること。以上である。しかし許し難い点もある。それは常に私の毛髪を見て、ホッと胸を撫でおろしていることだ。自分の胸にたたんでおくのなら良い。ニヤリとロに出して毛髪の量を確認するのが許し難い所なのである。彼が私に『対談ドキュメント』の演出を依頼して来たのは、サブでプロデューサーとして君臨し、ディレク夕—に対して、毛髪量で優越感を感じたかったからに相違ない。大体、テレビマンユニオンの人間は毛髪が濃すぎるのだ。そこへ行った私の同期の連中も、皆落葉の悲しみを知らぬ輩ばかりなのだ。今野など、睫毛と毛髪が直結しているようだし、村木はまるでシューベルトのようだし、森健一は大辻司郎といった按配だし、吉川が額の広さで許せる位だ。いささか脱線したが、この年の五月に、私は久し振りにスタジオのサブへ戻った。

 

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『対談ドキュメント』。大岡信さんと岸恵子さんの回。この時の副題を、もう忘れてしまった。古今集の仮名序からとったように思うが覚えていない。夕イトルなど、どうでも良いだろう。

 久し振りにサブに座ると、古巣へ帰って来たようでひどく心が安まった。しかも、フジテレビのスタジオで収錄したので、進行中のカッティングはTDに任せた。あれほど、何年間も映画の世界に没入していながら、たった数時間サブにいるだけで、元の木阿弥なのか。つくづく私はテレビのスタジオで育った人間だなと思った。

 このお二人の対話は素晴らしかった。こういう番組を作るのは楽しい。カメラ割りも不要だし、ケーブルのからまる心配もなく、VTRを回し放しで話を伺っていれば良い。このお二人の対話は雑誌「婦人公論」にそのまま転載された筈である。

 

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『対談ドキュメント』。水上勉さんと山本安英さん。前回の組合せは私の意見が入っているが、今回の組み合せは、純粋に萩元プロデューサーの企画だ。母の日の特集で、このお二人のお話も素晴らしかった。石庭をのぞむ書院のようなセットを組んで貰い襖に篠田桃紅さんの書を拝借した。これもフジテレビのスタジオで収録した。二回目だったので、収録は更にスムースに運んだ。私はただサブに居て、お二人の対話に感動していれば良かったのである。「母人(ははびと)」というタイトルだった。

 

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 この番組が終った頃から、私は新しい映画『歌麿 夢と知りせば』の製作に入った。

 現在、この珍妙な「問わず語り」を書いている時、その映画は封切られていないし、『対談ドキュメント』以後、テレビの仕事をしていない。年は変って昭和五十二年、しかも、もう夏は終わろうとしている。こんな機会に、自分とテレビジョンの係り方をきちんと整理しておこうと思ったのだが、うろ覚えの年譜を作ってしまった。それでも、こうやってふりかえってみて、はじめて色々なことを想い出してくる。そして、多くの落ちこぼれに気がつく。潰れた企画で脚本家に迷惑をかけたこともあったし、自分が脚本家として参加したことも忘れていたし、企画書も沢山作ったし、番組のブレーンもやったし、民放とはきり離せないCMのことはすっぽりとこぼしちまったし、……結局、何の整理も出来ていなかったことに愕然とする。これじゃあ、とても不惑の年齢と思えない。

 かつてのdA同人の、若きディレクターはどうなったのか、 終りに、ごく最近の私の日記を引用しておく。

 

昭和五十二年八月九日(火)の日記

 一昨日ノ、草野球デ走リスギタ。太モモガウズク。創世記ノ本ノ原稿ヲ書カナクチャナラナイ。ケド、全ク手ニツカヌ。

 今日モー日中在宅。高校野球中継ノテレビ観戦ノタメ。朝十時スギヨリ、連続シテ四試合ヲシッカリト観タ。加工テ、TVKノヤクルト対大洋、フジノ巨人対中日ヲトビトビニ観タノデ、結局今日ハ約十二時間ニワタッテ、テレビト対面シテイタコトニナル。勿論、毒ヲ喰ワバ皿マデデ、プロ野球ニュースマデイッタ。ココ二、三日大シテ暑クナク、夏ニシテハシノギ易イ。 シカシ、頭ハ茫ットシテ、習字ヲスル気ニモナレナイ。ソコデ読ミカケノ近藤唯之『プロ野球監督列伝•上』ヲ開ク。明日ノ試合ニソナエテ、週刊朝日ノ特集号ヲ読ミカエス。

歴史は
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