続・私のテレビジョン年譜
十年前、創世記という出版社からテレビ•ディレクター叢書めいたものが数冊出された折、私も『闇への憧れ』という書名で、書きちらしたものを纏めてもらったことがある。そのシリーズが挫折したのは、私の本が余り売れなかったせいかもしれない。が、責任のとりようもないから知らん顔をしておく。もう時効だ。
ところで、大和書房の青木さんがその本の末尾についていた 「私のテレビジョン年譜」というのを面白がり、その章をそっくり再録するから続きを書け、と言う。あのときは昭和五十二年の夏ごろまでを気儘に書いた。しつこい編集者を断るとくたびれるので、続きを書くことにした。それが、この「続•私のテレビジョン年譜」である。
ところが、近過去の十年分なのに、記憶がうすい。要するに老人ボケのひとつの症状である"ガキのころのことは覚えていても、昨日会った友達の名前が出てこない"って奴だ。だから少々くいちがいがあるかもしれない。でも、まァ勘弁して下さい。
【昭和五十二年のつづき】1977
秋になって、テレビのレギュラーにありついた。テレビマンユニオン制作の『ああ 野球』 (ABC)である。
その第一回「人生球場風雲編」
日本ハムの大沢啓二監督を密着取材したものだ。私は野球少年だったから、後楽園球場へ職員通路から入れることだけで興奮していた。親分肌、豪放磊落というイメージの大沢監督は会って取材をしていると、ひどく細かい気配りをする方で感心してしまった。スタッフの食事の心配までする方だった。興奮の揚句、カメラを手持ちにして球場周辺をうろついたことぐらいしか覚えていないが、萩元プロデューサーから次の声もかかったから、まあまあだったのだろう。
次は「長島さんは英語がお好き」
生田スタジオで、長島さん独特の横文字の混ったおしゃベりを肴に、大洋ホエールズの通訳の方とシピン選手、さらには国文学の松田修先生を交えてトーク番組風に作った、という記憶しかない。肝心の長島さんは出演不能で、等身大の写真パネルが出演した筈だ。阿呆なことをしたものだ。
「日本シリーズのルーツ」
青田昇さんが西本幸雄監督は面白いし、味があるというので出来上った企画だった。藤井寺球場で近鉄が秋季練習をしているときに訪れて、一日で取材は終り。勿論、キャスターは青田さんだった。ゲストに小鶴誠さんや岩本義行さんが出演したが、私は少年の日に胸をときめかした大打者を前にボーッとするばかり。アシスタン卜の小林達雄が舌打ちしながら球場をかけずり回っていた。
「くたばれ日本シリーズ」
上前淳一郎さんと寺山修司さんに日刊スポーツの阪急ブレーブス担当記者を交えて、卜ーク番組をつくった。千代田スタジオで収録をした。たしか、この年も阪急が日本一で、担当記者の方は黄金時代はあと数年つづく、と言っていたが、翌年ヤクルトに敗けてしまった筈だ。
【昭和五十三年】1978
たしかこの年も、ひきつづき『ああプロ野球』ではじまったと思う。
タイトルを忘れたが、吉田監督の解任劇があった(歴史はくり返す)タイガースを激励するものだ。
作曲家の武満徹さんが熱狂的な阪神ファンで、ダメ虎を叱咤しに甲子園を訪れる内容。取材してても、選手の熱気が伝わってこないチームだった。毎年選手が優勝祈願に訪れる西宮の広田神社へ武満徹さんが祈る姿も涙ぐましかった。
だが、宮司さんにイン夕ビューすると、
「私は阪急ファンなんですよ」
という答が返ってきて、編集でカッ卜した記憶がある。
武満さんは、甲子園の土を瓶に詰めて帰ったが、あの土はどうなっているんだろう。
ラストに虎の絵を出し、効果音で猫の泣き声を入れたら、萩元さんから、
「お前は激励してるというより、バカにしてるよ」
と言われ、反省。
『ああプロ野球』はもう一本。「キャッチャーのサイン」というのを演出している。
甲子園での阪急対阪神のオープン戦を取材して、阪急中沢捕手のサインをセンターに超望遠レンズを据えて追った。
試合の経過は、二台をスイッチングで狙ったが、スイッチャーも自分でやった。何しろたった二台だから。それでも、突然蓑田選手が本塁盗塁をし、興奮してどう押し間違えたかデッドにしちまった。いずれにせよ、大した出来ではない。しかし、どのボタンを押したんだろう。ADの小林達雄が鼻で笑っていた。
それと前後して、
『すばらしき仲間』(イースト)を一本やっている。
奈良にロケして、写真家の入江泰吉さん、宮大工の西岡常一さん、そして青山茂先生の対話である。丁度、金堂落慶後西塔の建前にかかっている西岡さんの薬師寺再建の話を中心にしたものになつた。
これは比較的うまく撮れたトーク番組になったのだが、イーストというプロダクションには、次に貰った『私は旅をする』という海外取材もので迷惑をかけてしまった。当時イーストの社長東修くんは、TBS演出部での三期後輩だが、フリーになった直後の私に、大阪万博の『フィフスディメンション•ショー』の構成の声をかけてくれたやさしい男である。超大型のピザでも、軽く五枚はひとりで食べてしまう。その彼が作ったプロダクションの仕事を受けて迷惑をかけたのだから、恩を仇で返したようなものだ。
巴里のマレー地区を上月晃さんをキャスターに撮影したもの、ロワール河流域の古城を鮎川いずみさんと回ったものの二本だが、スポンサーである某化粧品メーカーの社長さんが大変なご立腹。巴里はファッションに彩どられた華やかな町、マレー地区なんて汚ならしいところは巴里じゃない。こう言われて私は開いたロがふさがらない。モーツァルト縁のポーヴェの館を訪れたり、曲もモーツァルト巴里旅行にちなんだものを流したのだが、これにもご立腹。巴里の街にはシャンソンが流れてるんだ、と言われて、引き下った。
ロワールのものも含め、私が途中で投げ出した分は下村善二がひきついでくれた。
この年の夏には、久々、生放送につき合っている。高校野球にちなんだもので、
『甲子園開幕スペシャル ああ栄冠は君に輝く』(ABC)
例によってプロデューサーは萩元さん。局のサブには沢田隆治さんが座り、私は甲子園を担当した。何をやったか、ほとんど覚えちゃいない。
秋にはその萩元さんから『オーケス卜ラがやって来た』をやらないかと言われ、一も二もなく承諾して尻尾をふった。
結果、レギュラーの演出陣に加えてもらい、私が一番沢山手がけた番組となった。昭和五十八年の春に終了するまで四十七本も演出させて貰っている。好きなことに身をひたしていればいい、幸せな時期だった。
***
余談だが、フリーになって大半を私はコマーシャルで食わせて貰っているのだが、この年は大作が多かった。森乳サンキストのカリフォルニア•ロケで、直径百メートル以上のマークを空撮したもの。サントリーの屋根篇。日立の大河ドラマ用長尺もの。資生堂の口紅には中学生、薬師丸ひろ子さんがCF初出演した。可愛らしかった。
【昭和五十四年】1979
この年のはじめ、父親が他界した。浅田飴の撮影で大映スタジオから帰った夜だった。初七日の法事の翌日、森乳サンキス卜のロケでハワイへ飛んだ。そして、この年から『問題小説』『小説宝石』などにポルノ小説を書きはじめた。以前撮った『ウル卜ラマン』の私の分をまとめて劇場用映画にブロウ•アップして公開したのもこの年だ。タイトル他、少しだけとり足したが、余り真面目に仕上げをやらず、下村善二に後処理は頼んだ。
この年は『オーケストラがやってきた』十本もやっている。 一番印象に残っているのは、一本だけ生放送をやったこと。クリスマスに、成城学園の講堂から、小澤さんの指揮でクリスマス特集を組んだものだ。トラブルもなく、うまくいった。サブの受けとテロップ担当は新村もとお。彼も以前はTBSにいた後輩だ。マスター育ちだから、矢鳕と受けは上手だった。キュー•シートのチェックも名人だ。
ところが、この年の夏、とんでもない生中継を一本やつている。TBSが七月に、スイス•アルプスの山開きに合せて組んだスペシャルで、担当ブロデューサーは並木章。何しろ衛星生中継で、アルプスの山懐へイギリスから運んできた中継車を配し、ユングフラウの展望台にもカメラを上げ、スイス観光局の全面協力でスイスの空気を日本へ届けようという意図壮なる番組である。
前日のリハーサルはすばらしい上天気。アイガーを背にして、司会の渡辺謙太郎アナも上気嫌。つねづね、
「ビッグなことに挑むのが男よ」
と言っていた並木章は、地元の村長や、さして美人でもないミルク娘や、学校新聞なみの地元記者に肩を叩かれ、鼻をふくらませていた。ところが、ビッグな男にも、山の天気は銀座の女よりままならぬもの。
翌日の本番は、なんとどんよりとした小雨まじり。
渡辺謙太郎アナがふり返ってもアィガーは白い霧に包まれ、 まるでスタジオの白ホリ前と変らない。
「俺の自慢は佐賀の祐徳稲荷のお札を持っていることさ。必ず時間には晴らしてみせる」
と言っていた並木だが、目は血走るばかりで生放送の時間(日本では日曜の午後八時。枠は"日曜特番")が来てしまった。 ユングフラウの頂上からは、
「いま、こっちは少し晴れ間が見える」
と連絡がきたものだから、予定より早く一縷の晴れ間を求めてカメラを切り換えれば、てっぺんのスタッフはまだ来ないと安心して、昼食のおにぎりなんかを食っている。そのうち、登山電車にのせたパラボラが何故か火を噴いてしまった。
あとは、ただ大騒ぎ。スタッフには何故かイタリア人が多かったので、放送そっちのけでぎゃあぎゃあわめいている。
何とか東京で、かねて用意しておいたVTRにのりかえて貰ったが、並木はこの大失敗に、
「お前はフリーだからいいが、俺は故郷へ帰れない」
と大きな目に涙をためる始末だった。
でも、並木の特長は恢復のはやいところ。咽もとすぎぬうちに熱さを忘れてしまう特異体質の持主だ。
「ま、山の天気じゃ仕方ねえよ。もりもり食おう」 などと山を下りるころは鼻歌まじり。ところが宿へ戻れば、 東京からの連絡で、視聰率も最低。NTVが江川の初登板をぶっつけてきたのだ。これにはさすがの並木も悶絶。
「石川一彦(NTV)のさし金だな」
などとわけのわからぬことを呟いて寝ちまった。 その翌朝は、これまた上天気。
並木は大きなお目々で空を睨むが、時計の針は戻りゃせぬ。
「とにかく、ほとぼりの冷めるまでTBSには帰れねえから、つき合え」
こう言うものだから、私も並木と逃避行を共にして、チューリっヒでごろごろしていた。
「この失敗じや、二度とスイスなんかにや来られねえかもしれないな。ならば思い切って、最後に超豪華ホテルへ泊ろう」
と、並木は例によって気分転換。宿を移し、
「吉田茂も泊ったことがあるんだぞ」
こう言いながら、並木は高級ホテルのロビイにふんぞり返り、マーク入りの灰皿をポケットへ入れていた。
【昭和五十六年】1981
『オーケストラがやって 』を十本。他に『カラヤンとべルリン•フィルのすべて』という特番を三本。音楽と離れずに暮らせたいい年だった。
この他には、年末に『原辰徳スぺシャル』(NTV)というのも三本やっている。ジャイアンツの原辰徳をあれこれ分析したもので、これも萩元さんが ロデューサーだった。制作はテレビマンユニオン。
とりわけその第二回目の「原と巨人の仲間たち」は、久々日本一になったジャイアンツの祝勝旅行に従いて行き、マウイ島でインタビューを録ったもので、ラクな仕事だった。
何しろ、ゴルフだショッピングだ宴会だと選手たちはうかれているし、テレビや新聞社の取材が隙間を狙っているから、われわれに残された時間は一日数分しかない。あとはのんびり日向ぼっこ。カパルア•ベイの素敵なホテルで、いつもこんな仕事をしていたい、という気分だった。アシスタントの小林達雄がやけに心配性で、
「これじゃ番組にならない」
などと私の寝る間に実景を撮ったり、花を撮ったりしていたことを覚えている。物見遊山の人たちを野暮なことで邪魔しちゃ失礼だという理窟をつけて、私は専ら気楽にしていた。
そう言えば、この年も生放送をやっている。
放送広告の日というのが毎年四月にあり、新しい民放開局にひっかけて、新潟からの入中をNTVをつないで番組を作った。ずっとテレビマンユニオンが制作しているのだが、書くのを忘れていた。五十四年から三回だけ私が纏め役をやらせて貰った。この特番、いまもつづいており『ゆく年くる年』のように発局は持ち回りで、全民放が協賛スポンサーのもとに同じものを流す特殊なケースである。私のやった三回だけが、テレビマンユニオンの高邁な精神とかけ離れて、テーマがない。それを申し訳なく思っている。ラクして商売しようと思う訳じゃないが、結果的には、そんなものが並んでしまった。この年は生放送だったし、前年は桂三枝さんの司会でスタジオ収録の「大学CM合戦」だった。その前は清水の公会堂での中継スタィルで「CM音楽」を流したものだ。北原白秋の“ちやっきり節”をCMソングの祖として扱った。
* * *
テレビから離れるが、六月には葛井欣士郎さんのプロデュースで三島由紀夫『近代能楽集•熊野』の舞台演出をした。日生の『癩王のテラス』以来である。外連なくやろうとした結果、何の印象にも残らぬ舞台になってしまった。口惜しい。
【昭和五十五年】1980
一月に夜の時間帯だったが、スペシャルをやって開幕。イーストの東くんが懲りずにくれた仕事で、硬派のセミナー。
『バジール教授二〇〇一年』
というもので、堺屋太一さんとバジール教授の未来展望が核である。
五十五年もテレビの仕事の中心は『オーケストラがやって来た 』で、十二本もやっている。渋川、内灘、川内、松本、総社など地方での収録もたのしみのひとつだったが、ときには慣れぬ地方局のスタッフとの作業で、混乱を来たすこともある。オーボエの筈がフルー卜を撮っていたり、ヴィオラの筈がヴァイオリンを狙っていたり、……しかし、まあ大したことじやない。
慣れだけの問題で、新発田の折の新潟放送の連中なんか、全員東通のチームなみに適確だった。
この年、久々にドラマめいたものをやった。めいたというのは、アニメとの組合せというゲテモノだったからだ。私は実写のドラマ部分を担当した。
『二十四の瞳』
田中澄江さんの脚本である。子供のころをアニメ、長じて実写という組合せで、全体の三分の一程だった。アニメのスタッフとの共同作業は面白かった。放送はフジテレビ。
倍賞千恵子さんが大石先生役だったが、小豆島のロケも好天に恵まれ、たのしかった。
そう言えば、この年は、年末にもう一本生放送をやっている。たしかこの年に長島さんがジャイアンツの監督を解任されて、その長島さんを惜しむ特番をやったと思う。このタイトルは忘れてしまったが、テレビマンユニオンの制作で、フジテレビ。このときは局のサブに私が入った。二元で、新宿のアル夕に力メラを用意し街の声を拾った筈だ。
長島さんはVTRで出たかどうか忘れてしまった。とにかく私は会ったことがないから、またまた写真パネルだったかもしれない。
大体、生放送のいいところは、何があろうと直ぐ忘れちまうことで、アルプスのようなことでもない限りは日々印象が薄れてゆく。
この頃は結構、小説を書いていた。日刊スポーツに連載までしたのもたしかこの年で、ポルノとは言えいっぱし作家気取りだったが、世の中そう甘くはない。並木章をモデルに助平プロデューサーの話を『問題小説』に載せたら、
「告訴する!さもなきゃモデル料寄越せ」
と息まいていたが、周囲にいるTBSの仲間に聞くと、結構満更でもないようなので安心した。
【昭和五十七年】1982
「原辰徳スペシャル」のつづきで年を明けた。この番組は4回で終ったが、その最終回。西武の新監督、広岡達朗さんをゲストに小さなスタジオで撮った。毒蝮三太夫さんと明石家さんまさんが一緒だった。どういう組合せだったんだろう。それにつづいて、矢張り生放送で『スーパー新人王大会』タモリさんの司会で、フジの番組。制作はテレビマンユニオンだが、これもほとんど覚えていない。いまタキオンというプロダクションの社長をやっている稲塚秀孝がデッチ上げた企画だと思う。
この年は結構変った番組をやった年で、テレビ大阪開局記念番組の『関西ビジネス最前戦スペシャル』というのもやった。テレコムジャパンの制作で、近藤久也さんがプロデュ—サーだった。開局にちなみ、関西の一線級経営者をスタジオに集め、雛壇にずらり顔を揃えて、地盤沈下と言われる関西経済の展望を答えてもらうものだった。設問毎に手元のスィッチで賛成、反対を押してパネルに合計を示すのだが、本番前にコンピュー夕—がこわれて大さわぎ。結局挙手でやることになった。社長連がそのトラブルで帰るんじゃないか、と局の幹部はひやひやしていたが、一流の経営者というものは、タダでは腹も立てないことがよくわかった。この番組、レギュラー分をあと一本演出している。
それから、テレビ東京の特番『世界の豪華料理』も手がけた。 テレビマンユニオンで、プロデューサーは重延浩さん。彼もTBSの後輩だ。
「パリ•美食の饗宴」
と題した代物で、P•カルダンの経営する、かの“マキシム”の料理を撮った。岸恵子さんがホステス役で、漫画家のサトウサンペイさんと三遊亭楽太郎師匠の三人。ただ、美味そうな料理をつつき談笑するだけ。それじゃ余りに手がないから、カルダンのインタビューを取り、マキシムの歴史を紹介し、レハールの『メリーウィドゥ』なぞをBGMに流し、小森のおばちゃまのコメントをつけた。
そこ迄は良かったんだが、あまりにも全体がマキシムの太鼓持ちと思い、ラストをパリの赤提灯“ラーメン亭”で口直し、というシーンをつけ加えたら、放送後、重延さんはマキシムからさんざん嫌味を言われたそうだ。まあ、やっちまったんだから仕方がない。フランス人も存外頭が堅い。この番組は歳末に放送した筈だ。
五十七年も結構忙しく『オーケストラがやって 』は十本やっている。この年あたりから、音楽の中継中心となって、お話や解説よりも音楽に最大限の時間をさく方針になり、この仕事はますます楽しくなった。R•ゼルキンと小澤征爾のモーツァルトK四六七やべートーヴェンの第五番も、ほとんどコメントぬきで流すことができた。数住岸子さんのシリーズを三回やったことも忘れられない。
音楽もののスペシャルでは、テレビ朝日のスタッフと一緒に「伝説のピアニスト、ホロヴィッツのコンサート」をやった。勿論、萩元さんのプロデュースで、テレビマンユニオンの仕事である。BBCからの衛星中継を受けて、日本のスタジオで収録した中村紘子さん他の談話、直接ロンドンで萩元さんがインタビューした分を編集して作りあげるのだが、中継の翌日の放送で天手古舞した記憶がある。余り眠らず作業をしたので、放送のときは、スタッフ全員眠りこけていた。
この年、大阪にシンフォニーホールが出来上り、その記念にABCが特番をつくることになった。
『ぼくの音楽武者修業、小澤征爾の世界』
というもので、ドラマとドキュメンタリィが合体した企画だった。テレコムジャパンの制作だったが、萩元さんが監修プロデュース役をしていた。その番組の主として音楽部分を担当した。ドラマ部分はABCの松本さんがディレクターだった。
タングルウッドへ行き、第九(勿論、ベートーヴェンの)を全曲収録し、ザルツブルグへ飛びヨー・ヨー・マとのリハーサルなどを収録した。好きな音楽とだけつき合って、全体の責任からは逃れられるのだから、これも最高の仕事だった。
【昭和五十八年】1983 その1
淋しいことに年明け早々『オーケス卜ラがやって来た』が打ち切りとなってしまった。私は三本演出して終り。それでも武満さんの「ア・ウェイ・ア・ローン」や、小澤さんの棒で数住さん(vn)と藤原真理さん(vc)のブラームス「二重協奏曲」を録画できたのは、せめてもの慰みだった。
日比谷で開かれたお別れパーティで、萩元さんは泣いていた。 その涙は美しかった。
と、私の肩を叩くものがいる。パビック(技術会社)でコーディネー夕ーをしていた油谷岩夫だった。
「こんな悲しい夜は、トルコに行きましょう」
と言う。私は彼に誘われ、途中から会場を抜け、吉原へ行った。吉原のネオンが涙で滲んで見えた。
『オーケストラがやってきた』が終ったころ、テレビマンユニオンの上村喜一プロデュースで、市川猿之助のドキュメン夕リイを作っている。
『花人生七変化』(NTV)
で、もともとは珍獣といわれたユニオンの中谷直哉が熱心に企画していたものだ。演舞場公演『加賀見山再岩藤』を中心に、作家の村松友視さんをキャスターにモーリス•ベジャールのインタビューも交え、猿之助丈の奮闘ぶりを撮ったものだ。結構面白く出来上った。と、自分では思っているが、珍獣中谷の助力によるところ大である。
そして、久しぶりにこの年はテレビドラマをやった。
西武スぺシャルの『波の盆』(NTV)だ。
倉本聰さんの脚本、武満徹さんの音楽。お膳立ては
整っていて、ラクに出来た。このドラマの顚末はTBS
の『調査情報』(84年4月号)に書いたのでそれを全文
引用する。
* * *
『波の盆』を芸術祭に参加させる、と聞いたのは、
九月のなかば、マウイ島でロケをしている最中だった、
と思う。
「いまさら、芸術祭用に特別の趣向を凝らすわけに
はいかないね」
「今年は見わたしても不作みたいだし、どうにかな
るんじゃないの」
「倉本聰の御紋だからね」
NTVの山ロさん、ユニオンの吉川(TBSの同期生だったから、敬称はナシ)それに私の三人は、二日酔の頭で、
天気待ちの間、こんなことを喋っていた。
何せ、スタッフの大半は映画育ち、テレビの芸術祭参加、と知らせてもピンと来ないらしく、
「何とか頑張ってみるか……」
と言っても、助監督以下、気のない返事をしていた。
私は、そのとき、NTVって、こだわらないというか、面白いというか、
変った局だな、と思っていた。
だいたい、芸術祭は局に属する人たちのコンクールだったから、外注のこういうスペシャルを参加させるのは、めずらしいな、と思ったのだ。第一、せんぼんさんや、冠ちゃん、祖父江とか、NTVだって多士済々だ。きっと、たまたま、みんなレギュラーが忙しかったのだろう。もっとも、祖父江は(後輩だし、学校時代の仲間だから敬称はつけてやらない)酒の呑みすぎか、胃に穴を開けていた。
また、他所ものが参加作品をやっている、ということにもNTVの人たちは屈託がなく、中野さんや梅谷さん以下、みんな当り前の顔をしていた。
山ロプロデュ—サーなど、
「ぼくは芸術祭の担当もはじめてだけど、ビデオも初体験なのよ」と、笑っていた。
これが“ドラマのTBS"だったら、もっと芸術祭を意識させられていたかもしれない。まあ、私は最近のふん囲気を知らないので、見当ちがいかもしれないが。
ところで、芸術祭うんぬんとかかわりなく、この『波の盆』をひき受けるについちゃ、ずい分考えた。
私も、TBSをやめて一五年ちかくなる。動物的なカンで、餌を嗅ぎ分ける。なるたけ、わかりきった損な勝負はしないようにしている。フリーでいると、しかも厄年もすぎれば、そのあたりのヨミは鋭くなければいけない。
翌月締めの、三ヵ月先払い、しかも手形で、なあんてプロクションにつき合うと、泣きになる。日だてのカメラ助手まで、そんな支払い方にふくれ、私の目をうらめし気に見たりするんだから。つい、立て替えたりしてロクなことはない。しかし、仕事がなければ、ひき受けなきゃならない。
そういうときは、しみじみ、TBSをやめるなんてバ力なことをするんじゃなかった、と思う。
いささか下司な話になったが、『波の盆』では、金銭の心配をしなかった。なんせ、西武スペシャルだし、個人ギャラも、製作費も潤沢だろう、とタカをくくっていたからだ。
実際、自主製作のATG映画で三十代をすごして来た身には、コマーシャルに匹敵するような余裕があった。この作品、ユニオンにとって赤字にはならず、まあ利益率は知らないが、とにかくお目出度い結果になったと思う。
テレビマンユニオンは、ギャラの支払の綺麗なプロダクションで(フリーのスタッフ連の戯言、と聞き流していただきたい。 電通映画社とならんで双璧でもある)しかも、吉川がいたから、結果的にも、私は潤った。それにしちゃ、昨年の暮に、吉川に何も"お歳暮"を届けなかったな。こういうことを、フリーは忘れちゃいけないのだ。自戒。
じゃ、何でひき受けるのに逡巡したか、と言えば、それがテレビドラマだったからだ。ドラマという形式を、ビデオというマチエールで作ることから、私はずい分遠ざかっていた。意識して身をひいていた所為もあるが、注文もあまり来なかった。『波の盆』の製作発表会のとき、番宣の河村さんが、
「監督は一九年ぶりのテレビドラマなんです」と、記者のみなさんに告げたので、私は、そうか、テレビカメラでドラマを撮るのは一九年ぶりか……と、浦島太郎のような気持になった。同時に、テレビドラマからそれほど見放されていたのか、と複雑な心境でもあった。それだけやっていないと、億劫になる。
それに、TBSに在籍した一一年のうち、後半はテレビ映画の社外監督として放り出され、フィルムのグラデュエーションの魅力にとりつかれていたので、ビデオの画質がドラマを表現するにはいささか問題あり、と決めつけていたのだ。
もちろん、この一九年間にも、生放送もふくめて、テレビ力メラによる仕事も、沢山やってきたけれど、ドキュメン夕リー、対談もの、音楽もの、スタジオワイドショー、紀行番組、料理番組などで、劇はひとつもやらなかつた。劇は、すべてフィルムか、舞台にかぎられていた。
だから、はじめて、梅谷さんから電話をいただいたときも、「フィルムだったら即答できるんだけど......」
と、女々しい答をしていたのだ。
いろいろなテレビドラマを見ていて、その映像の質についていけそうにない、と信じ込んでいた。
フォーカスのこと、ライティングのこと、俳優の演技よりも、生々しく、場所と時間が気になる外景のこと、不統一な焦点距離等々、ひところ、テレビドラマは“映像でなく、音声なのだ" ということが、言われていたが、それも無理はない、と思っていた。
だから私は、即時性、くりかえしのきかぬ一回性に賭けられるものばかりを、ひき受けていたのだ。
第一、あのズームくみ込みのスタジオ用のカメラやENGなどで、いいカメラマンが育つわけもないじゃないか。このことは断言できる。
テレビドラマは、はじまって三〇年以上の歴史があろうとも、ただ一人の三浦光雄も、宮島義勇も、宮川一夫も、育てることはできなかったのだ。
但し、これから、高品位テレビの時代になれば、少し事情はかわってくるだろう。
私のこんな逡巡をうち破ってくれたのは、パビックの後藤くんだ。
「EC-三五ってカメラがイケガミにあるよ。それを導入するから、やればいい。」
その言葉は『波の盆』をひき受ける、ひとつのバネになった。
その逡巡の間、私はカメラマンの中堀と、材料のことにつき、あれこれ話をしていた。結論は、ベストがパナビジョンのテレビ、ということだった。しかし、それは日本に入っていない、池上のものは次善だったのだ。
さて、次に私がひき受けるのをためらった原因はスケジュールである。
「秋に放送する西武スペシャルなんだけど、とりあえず、ハワイへシナハンに行って欲しいんだけど……どうかね」
NTVの梅谷さんから、こんな電話をいただいたのは、昨年 (五十八年)の六月初旬だ。
内容を聞けば、脚本が倉本聰、放送は十月か十一月、まだ固まっていないが"老人と海"のような話、ということだった。 だから、ハワイロケをふくめて九月から一ヶ月半ぐらいは潰れるね、と梅谷さんに言われた。
たまたま、その電話でハワイへシナハンに行く時期がスケジュール的に空いていたので、
「考えときます」
と、私は返事をした。
フリーで生きてゆくとき、..........これは、これからフリーになろうとする方も、よく聞いておいてほしいが、..............むずかしいのは仕事をひき受けるときではない、折角、依頼の電話を入れてくれた相手のこころを傷つけず、しかもその場限りではなく、また思い出してくれるように仕事を断るということがむずかしいのだ。
私は、海外ロケ、長期、しかもドラマという悪条件の申し出に動揺した。しかも、相手は『子連れ狼』や『長崎犯科帳』のタイトルを好き勝手にやらせてくれた梅谷さんだ。
いささか、あんちょこを繙くようで気がひけるが。フリーにとって、とび込んでくる仕事の基準は"効率"ということにある。いかに最少の労力、最少の期間で、沢山のギャラをもらえるか、ということが肝心なのだ。
たとえば、かの川崎徹氏など、ひところは、海外ロケ、と聞くだけで仕事を断った、という。あらまほしきは、スタジオ一日、それもタレントのスケジュールで撮影時間に制限がついているもの、といった仕事である。しかし、そんなうまい仕事、世の中にゴロゴロころがっているわけもない。そんな仕事が月に二つもありゃあ、左団扇だ。
『波の盆』が芸術祭参加になり、目立ったこともあつて、昔同じ釜のめしを食った後輩に、「やっと、日の目を見ましたね」
などと、赤坂のバアで言われた。
馬鹿馬鹿しいから、閉鎖的なテレビドラマの世界しか知らない後輩に、反論もしなかったが、規準は、目立つことではないのだ。
いや、むしろ、目立たぬことこそよけれ、である。
以下、私の元帳を披歴しよう。ひき受ける仕事の基準を、フリーの心情を知っていただきたい、と思う。
一、スタジオ、数時間で上る、タレントのコマーシャル。しかも、夕レントは時間制限があるのが望ましい。おまけに、商品カットも、ごく楽に撮れるものを無上とする。
ニ、同じくコマーシャル。初号の時期が迫っていて、余り改訂等の余地のないスケジュールのもの。しかも、コンセプトのはっきりしているもの。
三、講演。これは、私は余り経験がない。しかし、一、二度頼まれて地方へ行ったとき、時間給で言えば、余りの高さにおどろいたことがある。しかも、地方では一流ホテル宿泊、宴会つき、というのが嬉しい。
四、地方ロケのコマーシャル。(海外ではない)しかも、自分の行きたい、見たい地方と重なったとき。おまけに、実景をじっくり狙えるようなコンテのもの。たとえば、昨年私がやった『さつま白波』のコマーシャルなどがこの範疇に入る。あのときは、焼酎も呑み放題で、最高だった。
五、原稿の仕事で、中編の小説。大体、原稿の仕事はひとりきりの作業で、他人に気をつかわなくて済むから楽なのだが、七〇枚程度の中編だと、日数もかからず最高だ。但し、この項目は、これだけで完結しない。何故なら、私の場合、原稿料が安く、月刊誌にのせただけでは生活の足しにならないか
らだ。その先、単行本、映画化原作料、といった役がついてこそ、五番目にのし上れる。しかし、そんな体験、うまい話、滅多にあるもんじゃない。
六、原稿で、新聞か週刊誌の連載小説。一回の枚数が限られており、生活のたしかな基盤ができて、とてもいい。
七、音楽ものの中継番組。しかも、事前取材のあまりないもの。これは最高だ。何しろ、中継だから、トークのシーンを除いて、後処理が少なくて済む。あの消耗的なビデオ編集室に入りびたりにならなくて済む。ほぼ、スイッチングで、生放送に近く、音楽部分はパッケージ出来るから、効率がいい。しかも、自分自身の趣味も満足させられることが多いのだ。私は、昨年の春まで、準レギュラーとして、TBSの『オーケストラがやってきた』を四年ちょっとやらせてもらったが、それは素晴しく、たのしい思い出だ。私の率いるコダイ•グループというスタッフの面々が、「いつまでも、好きなクラッシック音楽ばかりに淫してないで.......」と、言ったことも、『波の盆』をひき受けた遠因になっている。
八、ドキュメンタリィ、バラエティものの構成。これも、仲々によろしい。監修だけの場合もあるのだが、かえって責任を感じていけない。構成台本の仕事は、演出の立場から離れ、最終的な結果についちゃ演出の貴任に転嫁できて、とても居心地がいい。
九、映画、またはフィルムをマチエールとするドラマ。これは大して銭儲けにならぬことが多い。しかし、自分の嗜好を満足させることが出来、そのノウ•ハウも掌中にしている(と、錯覚かもしれないが、信じ切っている)もので、数年に一度はやりたいと念じている。
十、風俗探訪の仕事。記事を書くとか、写真を撮るとかで、しかも危険を伴わない仕事。たとえばソープ嬢座談会の司会とか、SM雑誌のレポー夕ーとか。……趣味と実益の二つが重 なり、羽化登仙の気分になれる。この分野、注文がまだ少ないが、これからセールスしなければ……と考えている。
まあ、ざっと、以上のような具合で、仕事のランクをつけているわけだが、世の中そんなに甘くはないから、そうそう自分の思い通りに仕事がとび込んでくるわけではない。ただ、長期間を要するスペシャルドラマの仕事が、フリーの身にとって、それほどの栄光と名誉でもないことを、おわかりいただければそれでいい。もっとも、これからその演出料も飛躍的に上昇し、外国の演出家なみに、一本の長時間テレビドラマ、または映画で、一、ニ年充電期間が送れるほどのペイがなされれば、話は別である。
従って、現状では、いわゆる"良心作"という代物は、企業内の社員ディレクターにお願いする他はない。
まあ、今、ざっと披瀝したランキングによって、私はある期間スケジュールが食われてしまうことを逡巡したのである。しかも、素材、主題は、決して私のやりたいことではない。しかも、私の大嫌いなハワイロケの仕事である。
【昭和五十八年】1983 その2
大体、最近の局内における芸術祭ドラマのローテーションを知らないが、むかし、私がTBSの演出部にいた時代は、五月ごろに、秋の芸術祭のスタッフは決まっていた。そして八月ぐらいからは、通常番組のシフ卜から足抜きをし、九月から十一月の三ヵ月ぐらいは、放送後のほとぼりがさめるまで、芸術祭オンリイで過せばよかったのだ。レギュラーに復帰するのは、暮だった。
私はTBSへ入社して、たて続けに数年、芸術祭のチームに組み入れられていた。
その当時は、現在とちがって、長時間ドラマの枠も少なく(あっても、せいぜい、一時間枠)芸術祭ドラマのみが、映画の尺と拮抗しうる表現の幅を持っていたのだ。(稀に、ナイ夕ーの雨傘番組で、長尺ドラマを作っていたことはあった)しかも、芸術祭という催しが、現在よりも、ずっと華やかな年中行事だった時代である。だから、演出部のシフトの組み方でも、班を超えて(当時、TBSの演出部はチーフ•ディレクターの下に班制度を敷いていた)芸術祭優先でチーム作りがなされたのだ。夢のまた夢である。
従って、スケジュール的にも、その期間は「一年を二〇日で暮らすよい男」とはいかないが、芸術祭ドラマに専念出来たのだ。
しかし、当節のフリーだと、そうはいかない。勿論、『波の盆』を芸術祭参加と知ってひき受けたわけではないが、その期間にも、私は平行していくつかの仕事にかかわっていたのである。その間隙をぬって、やれるか否か……。
それが先述のランキングと併せて、私を逡巡させた第二の要因だった。
そのとき私は、(つまり、梅谷さんからスケジュールを聞かれ、その後、プロダクションの吉川からも親切な言葉をもらったとき)制作時期と平行する、いくつかの仕事と『波の盆』を天秤にかけていたのだ。何故なら、『波の盆』は魅カ的な仕事だったけれども、スタッフをまとめ、事務所を維持するのに、それがすべてを放棄してもやるべきこととは思えなかったからだ。
その頃、私は前後して、にっかつ企画部の成田さんから、石井隆原作の『魔奴』の監督、パン•コンサーツの吉木さんからTBS放映の、BBC制作『ワーグナー』の日本版演出、といった仕事の提示を受けていた。それらは、『波の盆』に劣らず魅力的だった。再三脱線するが、こういう時、どの仕事をえらぶかという判断は、フリーの身の上にとってひどくむずかしい。電話が入ってくる五分のちがいが致命的なこともある。
にっかつの話は性急な封切日のことで、パン•コンサーツの話は、原版到着と翻訳の遅れで、残念ながら手がけることはできなかったが、人生は糾える縄の如し、と言う。たまたま『波の盆』を選択し、たまさか大賞受賞となり、褒められたり、揶揄われたりしたけれども、それが結果的によかった、と言う結論が出るのは先のことだ。数年前、矢張り賞についた年があった。サントリーで広告電通賞をもらったり、資生堂でカンヌの金賞をもらったりしたことが、いくつか重った年がある。しかし、その後、受賞ディレクターということで簡単な仕事から声が掛からなくなった期間がある。一九年ぶりと、宣伝されるのはいい。それが、たまたま大賞となり、その結果、仕事が減っては、泣くに泣けないじゃないか。
あのときの逡巡の結果が、正しかったか否か、結論は出ていない。
とにかく、私は『波の盆』の制作期間中にも、平行していろいろな仕事をやらざるをえなかった。ネスカフェの観世栄夫編の演出、アサヒ芸能連載のポルノ小説『輪舞』の執筆、等々…… とても、テレビドラマひとつのために気持を集中させる余裕がなかったのだ。 その故か、結果的に「このドラマは、作る側のあつい気持がない」 などと、新聞で批判を受けた。創作動機の気持についちゃ、作者の範疇と、彫り師の職人としちゃあ責任の持ちようもないが、そういう隙を見せたことは申しわけなく思っている。
テレビドラマであること、スケジユールのことで天秤にかけ たこと……に加えて、『波の盆』に逡巡した三番目の理由は、それが倉本聰さんの脚本だったからだ。
テレビドラマは、一人の名カメラマンも育てなかったけれども、数多くの脚本家たちを育てたことは誇っていい。映画が俳優を育てられなくなった低迷に思いを馳せれば、コマーシャルと共に、俳優を育てたこともつけ加えていいかもしれない。(もっとも、俳優のことに関して言えば、甘やかした、という大罪も背負っている)
左様に、テレビドラマは脚本家の世界だから(たとえば、新聞のラ•テ欄でも、番宣でも、宣伝されるのは脚本家ということのようだ)映画畑を歩き、しかも自分の小宇宙で生きてきた身には、ルイ•ビュトンならぬ倉本ブランドは眩しすぎたのである。
私はコンサートの会場で、演奏のあと、指揮者が、観客のオマージュを、臨席している作曲家へ向ける光景が大好きだ。演出者というものは、飽くまでも作曲家ではなく、指揮者にちかい。従って、ドラマをやるときは何時も、コンサー卜会場の指揮者のように、具体的なかたちにしたという自負を内心に秘め、 脚本家に第一等の地位を譲るのも当り前、と思う。
しかし、リハーサルの段階で、作曲家が「そこは、もっとレガー卜、.....そこはアッチェルランドに、........いや、そこはポコ•クレッシェンド、.......」
などと、いちいち横からロを挟んだら、指揮者もたまったものじゃないだろう。
ドラマであると、コマーシャルであるとを問わず、コンセプトで了解点に達したなら、演出家の領域は、聖域でなければ、混乱が起きるばかりだ。この点じゃ、私はずい分、クリエーターとも喧嘩してきた。
私は、従来の倉本さん流の作り方を風聞でしか知らなかったが、制作段階で無用なトラブルが起きるのは大人の仕事でないと思い、領域を吉川に問い質したのだ。
「大丈夫だよ。倉本も今回はそんな箸の上げ下ろしまで干渉しようと思っちゃないよ。だったら、お前みてえな我がままな演出、えらびやしないよ」
という答が返ってきた。
実際、『波の盆』の製作過程では、顔合せの本読みに出ただけで、倉本さんはじっと耐え、演出の領域に踏み込もうとしなかった。
今となっては、果して、そのことが『波の盆』という脚本にとって、幸せだったのか、不幸だったのかわからない、と私は思っている。
だいたい私は、脚本に手を入れることを好まない方だが、今回も、脚本のシーン、セリフには、合意に達した後では、一字一句も修正を加えなかった。最悪は、俳優が、己れの狭い体験とちょっとした感性で、脚本の構造やセリフに文句をつけることだが、私はそういったことを一切受けつけない。その辺りのことは、論議以前のこと、と思っている。
いくつかあった逡巡の材料が、ひとつひとつ払拭され、私は『波の盆』をひき受けた。そして、それが冒頭に記したようなタイミングで、芸術祭へ参加することになった。
私は、倉本さんの脚本で演出をし、彼の脚本の生理がわからなかったことをひどく恥じた。倉本さんは、予定された俳優さんたちの息づかいまで計算し、セリフを作っているので、第一稿で、きちんと尺も計算されていたのだ。私は、他の作家たちとつき合うように、尺の計算から、単純に何ヵ所かのカットを要求した。
しかし、出来上ってみれば、そのカットを要求した分だけ少牌だった。
矢張り、演出家は、フリーの場合、あまりいい脚本で仕事をひき受けるべきではない。むしろ、やや疑わしいと思われるものを処理すべきだ、と思う。さもないと、功績はすべて脚本家のものとなり、欠損はすべて演出家のものとなつてしまう。
こんな脚本家中心の構造だから、テレビドラマには、演出家が育たないのではないか、と私はしんみり考えた。
出来上った『波の盆』については、いろんな人から、いろんなことを言われた。自分じゃ信じていなくとも、賞められりゃ誰だって有頂天になる。私も、ある昔馴染みから、
「大変な勲章だねえ」
などと、受賞を讚えられ、鼻をふくらませるポーズを作った。
しかし、いろいろな逡巡の中で、最終的にひき受けるに至った動機は
「ここで、テレビドラマを断ったら、二度と相手にされなくなるだろう....」
という、本能的な感触だった。
フリーになって、一五年ちかく生きてきた。徒党も組まず、単身で、円谷育ちの残党たちと、身を寄せ合って、飢えをしのいで来た。そのスタッフたちを投入したから、『波の盆』には、かがやかしいテレビドラマの未来はない。それは、EC-三五という秀れたカメラ、映画育ちのカメラマンにしてはじめて扱える操作性(勿論、優秀なVEの存在は不可欠だが)の利点をふくめ、むしろ、過去への遡行という結果に終った。
セットは、日活の土のステージを使い、メジャーで、フォーカスを計り、バトンのスクープは拒絶し、力チンコを入れ、編集者も浦岡さんという、大御所に入ってもらった。
スイッチングをしたシーンもいくつかあるが、そのことで、全体の映画制作形態は崩さなかった。
従って、『波の盆』は、テレビドラマの最尖端に位置するものではない。むしろ、映画のエピゴーネン、と言っていい。そのことは、私自身、よくわかっている。
しかし、手がけたものには情がうつる。
私は武満さんのテ—マに酔っていた。今年になって、梅ちゃん
(TBS編成の梅本氏註:今やTBSの人事労政局長である)と呑んだとき、
「あれは、マーラーだね」
と彼は事もなげに言った。
成程、そうか。梅ちゃんは、マーラー五番のアダージェットを連想
したのか、と私はおどろいていた。大洋を越える思いからいけば、むし
ろシべリウスの『波の娘』の方が近親かと思っていたが、マーラーと
言われて、私の心は騒いでしまった。
それは、私のあこがれであるヴィスコンティの『ベニスに死す』が
そのアダージェットを基調にしていたからだ。
マウイにも海があり、ベニスにも海がある。しかし、そこでくりひろ
げられるドラマには、何というちがいがあるのだろう。
『波の盆』には、アドリア海に面した退廃と爛熟はなかった。それは、
芸術祭とは言葉の綾、本来、芸術のもち合せる文化の爛熟からは無縁
だったのだ。
その点では、テレビドラマは、終生、芸術とは無縁だろう、
と思う。異を唱える人は、ちがうジャンルへ、保障された身分を捨てて
飛び込んで欲しいと思う。
ヴィスコンティは、大衆社会からは芸術が生れないことを知りつくしていたのだ。だから、あの落日を描くことが出来たのだ、と思う。
音楽の類似性を指摘され、内容の余りの落差に愕然とし、私はこれから一切、芸術などと言うことを口走らないようにしようと心に誓った。
フリーの身には、芸術祭参加は眩しすざた。賞牌のレプリカをもらったとき、やけに空しく、私はそれを実家の母に送ってしまった。
フリーとて、停年はある。いや、フリーだからこそ、停年がある。社員の人たちが停年後の職さがしをするのと同じように、フリーであることの停年も五五ぐらい、と思っている。フリーには、本給の三分の一、といった嘱託期間もないから、真剣に第二、第三の職場をさがさなければならない。咽元すぎれば、『波の盆』も、どうでもいい。私は、年が明けてから、第二の職さがしに駆け回っている。
あれこれ逡巡した揚句、結果的にはひき受けて、このざまでは、あまりにも情けないが。
しかし、所詮、テレビドラマじゃないか。暇つぶし、じゃないか。ヴィスコンティには比肩出来ないのだ。
***
結局、五十八年は『波の盆』をだらだらとやって、結構脚本は何本かやったけど、他にテレビの演出はしなかった筈だ。もう忘れてしまっている。
【昭和五十九年】1984
二月に、TBSの先輩瀬口誠一郎さんが突然他界された。驚いた。まだ春秋に富む人生がある筈なのに。
瀬ロさんの死は衝撃だった。
たまたま前年の暮ちかく『波の盆』の放送当日に赤坂で会って立話をした。
「今日はこれから帰って、お前のドラマを見るよ」
それ以降、一、二度すれちがったきりである。この年のTBS『新春の宴』が最後だった。忙しそうで、握手をしただけだった。
いつでも会える、ということは全くアテにならない。淋しさがつのった。
瀬ロさんとは、私がTBSの演出部に配属されたとき、最初にあれこれ面倒を見て貰った因縁である。
昭和三十四年の七月一日、入社後三ヵ月、研修と美術の実習を終って、並木たち同期七人と演出部に配属された私は高橋太一郎さんの班に入った。
その時の高橋班のメンバー。(敬称略)
高橋、遠藤、小坂、篠原、菅原、小林、岩崎(守)、宮武、小幡、瀬ロ、そして私。
その時の担当番組とシフトは、
月•音楽の手帖•D•遠藤
東京0時刻(アワー)•D・菅原 AD•高橋、岩崎、実相寺
母と子・D・篠原 AD•瀬ロ、小坂
火•カロラン・ミュージカル・D・宮武 AD・篠原、小幡
水•横河コンサー卜•ホール D•遠藤 AD•実相寺
土•日真名氏飛出す D•高橋 AD•岩崎、瀬ロ、実相寺
日・ナショナル日曜観劇会 D•小林 AD・小幡、実相寺
というものだった。
この班にいたのは、ほぼ一ヵ月半で、八月の十二日には編成変えがあり、私は石川甫さんの班に移った。
ついでに、何故か記録が残っているので、その折の石川班のメンバーを書いておく。
石川、蟻川、神永、岩崎(文)、宮武、鈴木、西村、梅本、鴨下、中村、そして私。
ちなみにシフトは、
月 銭形平次捕物控 D •石川 AD・梅本、西村、鈴木
母と子 D・神永、岩崎 AD・鴨下
火 カロラン•スリラー“駆け出せミッキー” D•宮武 AD •鴨下、実相寺
木 この謎は私が解く D•蟻川 AD・西村、梅本
屋根の下に夢がある D•鈴木 AD 宮武、実相寺
というものだった。
直接、瀬ロさんの下でAD修業をした期間は短かかったが、何しろそれからもいろいろと親切にして貰った。深夜宅送の折など、瀬ロさんは鶴見、私は鵜の木でよく一緒に帰ったものだ。当時鴨下信一さんが中延、梅本彪夫さんが洗足池に住んでおり、演出部の送りは、一台にこの四人が乗ることも多かった。
テレビの手ほどきをしてくれた瀬ロさんの他界は、私にとってひとつの歴史の終幕だった。
その淋しさから脱けきれぬころ、前年『波の盆』のときに使用した、池上のEC-三五というカメラのデモンストレーションの仕事をした。パビックの後藤勝彦さんからきた話だ。
『春への憧れ』
と題した小品で、二月堂のお水取りを中心に、早春の大和路をイメエジ•スケッチした。主軸は音楽で、それに合せて画面をつないだ。児玉美佐子さんに弾いて貰い、モーツァルトの『デュポールの主題による変奏曲』を基調にした。
この作品をはじめ、私の音楽ものの編集をしてくれるのはパビックの水野幸夫だが、こいつは変態と言っていいほど、きっちりやってくれる。もっとも、この『春への憧れ』にもついてくれ『オーケストラがやってきた』でもずっとアシスタントをしてくれた東正紀(現在夕キオンのディレクタ—)は、完全な変態だった、余計な話だが。
この年は、何年ぶりかでテレビマンユニオンの『遠くへ行きたい』をやった年でもある。
ひとつは八月、ひとつは十二月。神田と鎌倉という近場で済ませた。タイトルは忘れてしまった。ADをやってくれた碓井広義という塩尻育ちの男が、段取りから後処理までやってくれるので、私はおんぶするだけだった。
このころ、例の並木章は日曜八時の『諸君!スペシャルだ』 という番組のプロデューサーをやっており、夏に私は一本演出をした。
「上海にジャズが流れた日」
というタイトルだったと思う。
ジミー•原田さんとオールド•ボーイズの上海公演を追ったものだ。渡辺企画の制作。プロデューサーの砂田実さんは元TBSで、勿論大先輩である。
これもたのしい仕事だった。大陸育ちの私にとって、引揚げ以来久々に足を踏み入れた中国はなつかしかった。私は昭和十七年に上海へ行ったことがあり、そのとき泊っていたのがキャセイ•ホテルだったが、何の因縁か、ロケの折泊ったのが和平飯店と名を変えたそのホテルだった。市電こそなくなっていたが、上海の佇いは四十年前と変らず、ある苦さとふるいつきたくなるような親しみで胸が一杯だつた。
並木も大陸育ち。常日頃アカシアの大連を自慢しているが、青島育ちの私にコンプレックスを拭いきれない男だが、上海の画には文句をつけなかった。矢張り、大陸が懐しかったのだろう。
この年、桐朋学園で故斎藤秀雄先生の門下生たちがより集まって、追悼の意をこめ、久々にオーケストラを結成するという出来事があり、萩元さんがプロデューサーで、スペシャル番組をつくることになった。
それが、
「先生!聞いて下さい」
というものであり、私がディレクタ—をやることになった。
世界各地から優秀な門下生たちが集い、一回限りのすごい演奏会を東京文化会館でやったのだが、感動的な催しだった。中継、インタビュー素材のすべてを長時間そっくり放送したかった程のものである。斎藤先生編曲のバッハの『シャコンヌ』の時に、小澤さんの目から滂沱として流れた涙を、私は一生忘れることがないだろう。そういう瞬間に、ディレクターとして立ち会えたときは、ほんとうにこの商売をしていて良かった、と思う。
【昭和六十年】1985
年のはじめから、映画の話が煮詰って久々に準備をはじめ、 スタッフ•ルームも大映に出来てロケハンにかかった。円谷プロ作品『怪獣協奏曲』である。関沢新一さんの原案で佐々木守脚本。本多猪四郎先生の監修で、円谷英ニ監督の追悼映画になる筈だったが、準備半ばで資金ぐりがつかず、プロデューサーから延期を申し入れられた。延期とは、中止ということだ。
春は、コンサート・オペラ、アルバン・ベルグの『ヴォツェック』にかかりきりになった。念願だったオペラ演出に少し近づけて、嬉しかった。
あまりテレビの演出をやらなかった年だ。編成台本はいくつか書いたけれども。
『遠くへ行きたい」は夏に一本、冬に二本やった。檀太郎さんと塩釜、余市をやり、桂三枝師匠と長崎へ旅をした。
一時間ものは、たしか中村敦夫さんの『地球発二十二時』(MBS)
だけだ。砂田さんのプロデュ—スで創都の制作。
「日本の秋」
という夕イトルで、白川郷にある廃村の秋祭りを取材した。
「僕はオブジェでいいですよ」
と、のっけから中村敦夫さんに言われ、勝手なスケッチを作った。
それ以降パッタリ注文も来ないところをみると、大した仕上りじゃ
なかったんだろう。
たしかこの年、西崎義展さんの依頼で、
「交響曲宇宙戦艦ヤマト」を作っている。NHKの衛星放送のためと
いうことだったが、しばらく経って放送もされた。 誰も気がつかな
いだろうと思っていたら、久世光彦に、
「俺が民放ディレクターで、NHK一番のりを果したかったのに」
と言われて、ああそうか、と思った。何にせよ一番のりは気持いい。
但しこの仕事、宮川泰さんの原曲を羽田健太郎さんが四楽章の交響曲に仕立てたものだが、収録日のぎりぎりに完成して、カメラ割りもままならぬ状態だった。そこで援軍を求め、四楽章のそれぞれを分担してカメラ割りをすることにし、統一は私がやることにした。一楽章を喜園伸一、二楽章を小林達雄、三楽章を東正紀、終楽章を私がやった。楽章ごとにディレクターが交代するなど滅多にあることじゃないから、スイッチャーの井上さん(東通)はあきれていた。しかし、どんな火事場の騒ぎがあろうとも、ビデオの作品は出来上るものである。指揮は大友直人さん、演奏はNHK交響楽団、N響を撮った民放ディレクターもいないだろう、と少し鼻が高かった。
中継の素材にアニメをインサートする編集に大変だったが、面白い作業でもあった。また、こんな仕事をやりたいものだ。
【昭和六十一年】1986
一月二日に放送されたのが、
『なつかしの小学唱歌大全集』 (NTV)だ。勿論収録は前年の暮である。NTVの石川一彦さんと油井慎次郎さんからの話で、制作は夕キオン。社長となった稲塚秀孝がプロデューサーだった。これも結構切羽詰って出てきた企画で、時間がなく、タキオンの大久保邦孝と共同でやった。中年男としては、サブに坐ってスイッチャーへの指示も忘れ、なつかしい歌の数々に涙をうかべたものだ。若い大久保は専らインサート用の画面づくりに、ロケをしたり、ありものを探していたが、曲には全く無関心で世代の違いを思い知らされた。函谷関も……とか、苫屋こそ……とか、旅順開城……とか、チンプンカンプンだったろう。
私はスタジオのトーンを、セピアのなつかしい写真をめくるようなモノトーンにしたくて、照明さんに意図を伝えると、「いいですねえ、それでいきましょう」
と言われ、当日スタジオへ入ると、極彩色の明りに目が眩んだ。きっと、稲塚あたりが手を回したのだろう。まあ、結果それで良かったのだが。
タキオンという制作プロダクションは、テレビマンユニオンの分派だが、性的変態と大食漢の集りでもある。しかし、馬車馬のように働く奴が多くて、たのもしい。そのタキオンからもう一本、この年に『ワイセンベルグ』の、放送とパッケージ両用の仕事を貰った。そして、これも大久保と共同で作業をした。
パリにロケして、ショパン縁の地を尋ね、演奏とカット•バックする企画で、たのしい仕事だった。プロデューサーの石井信平の英語には感心したが、大食なのにも目を見張った。やはり夕キオンだ。
この『ワイセンべルグ・私のショパン』は、仲々スポンサーとの話がまとまらず、つい最近ようやくパッケージになった。私が映画にかかっていたので、大久保がうまくまとめてくれたのだ。
そのロケにひきつづいて、キャスリーン•バトルのコマーシャルを撮ったのだが、まさかあんなにもて囃されようとは思わなかった。テレビの仕事にひきつづいてコマーシャルのロケに移ると、めしも豪華になり、有難さが身に沁みる。私がフリーになって食いつないで来られたのもコマーシャルのお蔭。当分やめられない。
そうだ、この『ワイセンベルグ』を撮る前に、はじめてハイビジョンのデモンストレーションを作った。NVS研究会の依頼で、話を持ってきてくれたのは下村善二である。NHKのクルーと、私の属するコダイのスタッフとの共同作業でやった。 自分の好きな映像をスケッチして、たのしかった。
『東京幻夢』がそれである。ベートーヴェンのクロイツェル•ソナタの第一楽章をそっくり使った。数住岸子さんと藤井一興さんに演奏して貰ったが、録音の作業もたのしかった。
ハイビジョンについては、いろんな所で発言もしているから、あえて書かない。NHKのVE小熊さんにいろいろと教わりな がら仕事をすすめることが出来たので、何のトラブルもなかった。
夏には一本だけ『遠くへ行きたい』をやった。檀太郎さんと石見路へ行った。
そして秋に、久々ドラマをやった。
『火曜サスペンス•青い沼の女』 (NTV)である。コダイで制作したことで、印象ぶかい。
コダイで映像関係のマネージらしきことをしている劇作家の岸田理生さんが、泉鏡花の
『沼夫人』 を自由に脚色したものだが、まさかこういう企画が通るとは思っていなかっ
たので嬉しかった。NTVの山ロ剛プロデューサーのお蔭である。山ロさんとは『波の盆』
以来の仕事だった。
しかし、沼を主な舞台にしてどうやって撮影をするか、ロケハンをしても構想がまとま
らず困っていたとき、美術の池谷仙克(実はコダイの社長、私の上司でもある)が、
「オール.セットでやりましょう」
と提案して、イメエジがふくらんだ。
これもEC-三五で撮影した。カメラは中堀正夫、照明は牛場賢二。音楽の三枝成章さん
には、シェーンベルグ風の音楽合奏を一曲だけ作曲して頂いた。
実は、火曜サスペンスの局におけるキャップともいうべき存在が、私の話に度々登場する
並木章と大学時代から因縁の小坂敬さんである。このときばかりは並木に頭を下げ、
「不出来でもふかく追及しないよう、小坂さんに言っといてくれ」
と頼んだ。
しかし、並木が、
「あいつを起用したのが間違いなんだ」
てな調子の電話を入れたから、暮のNTVのパーティで、私は小坂さんと顔を合わすまいと人混みの中を逃げ回った。結局はつかまって、
「このお!」
と言われ、私は並木ともども、河豚を御馳走する羽目になった。が、二次会で銀座へ呑みに連れてって貰ってるから、結局は立場がない。もっとも銀座については、並木にも感謝しなくちゃいけない。謹厳居士の私をそういう巷で人生勉強させてくれたのは並木だから。
『青い沼の女』で六十一年も終りか、と思ったころ、突然アダルト•ビデオの話が舞い込んだ。
『レイプマン』
『リイド•コミック』に連載されていた同名の劇画をビデオにしようというもので、円谷粲さんが話を持ち込んできた。
コダイの事務長兼プロデューサー、以前、私の特撮テレビ映画ではずっと特撮監督をやっていた大木淳吉は、
「手を出すのはやめましようよ、銭にもならないし、監督料なんか出ませんよ」
と言っていたが、私が助平心から承知してしまつた。
劇画を三話分、オムニバスでやることになり、私はカメラマンの女がレイプされる“竜子”という話を十七分に仕上げた。
一話は北浦嗣己、三話は服部光則が監督である。二人とも、長年一緒にやってきた仲間だ。とりわけ服部は業界でも一、二を競うスケコマシで、こういうものには向いている。
私は松川ナミさんを主役に一日で撮り上げた。レイプマン役の速水健二さんは、知る人ぞ知るアダルト界の名優で、女の扱いは慣れたもの。
金がないので、小さな写真スタジオに小道具だけのノー•セットで収録したが、面白かった。また、やりたいと思っている。この時も技術コーデイネーションをしてくれた油谷岩夫が、撮影終了時に、
「監督、ぼくも催しちゃった。行きましようよ、岡場所へ」とうるさく誘ってきたが、私は断固辞退した。第一、そんな ところへ行ったら、失くなってしまうほどのギャラである。
どこで、アダルトに手を染めてることを察知したのか、編集中に並木章から電話が掛ってきた。
「お前もフリーになって落ちぶれたもんだ。俺の忠告も聞かずTBSをやめるから、そんなものに迄手を出す羽目になるんだ ぞ」
「……まあな」
「ところでだな、ぼかしを入れないうちに見せてくれ。親友だろ、お前。また、銀座へ連れてってやるからさ」
私はこの誘惑もしりぞけた。
実は、並木にはコダイの株も買って貰っている。並木は株主の立場を利用し大木にも脅しをかけてきた。
「とにかく、見たいよーん」
最後は泣きになったが、大木もこればっかりは断った。そして、完成品を届けたところ、モザイクのぼかしは入っていても、並木はいたく満足していたのである。
この年はアダルト•ビデオで終ってしまったが、趣味の面では充実した年だった。
コンサートオペラ『アッシジの聖フランシスコ』と『エレクトラ』の二本に携わることが出来、萩元さんのお蔭でサントリーホールの"ザ•ガラ"もやれた。打ち止めは、石井眞木さんを手伝った『石井漠生誕百年記念』のリサイタルだった。
「青い沼の女」…沼のセットで準備
「地球発22時」の取材先、白川郷で
【昭和六十二年】1987
私は十年ぶりに映画を撮った。
『帝都物語』がそれだ。
いま、この原稿を書いているときは封切り前だが、ハイビジョンも使って、ブルーバック合成では、その威力をまざまざと味わった。
映画に下半期をつぶしたから、テレビとはほとんど無縁で過してしまった。映画が作れたのは、EXEという会社の堤康二さんと一瀬隆重さんのお蔭だ。二人とも若いのに、よく私のような見捨てられたオジンを起用してくれたものだ。足を向けては寝られない。
コマーシャルを除いて、ビデオ作品は一本しかない。五月に人見記念講堂でリサイタルをひらいたキャスリーン•バトルの中継である。
『リリック•ソプラノ キヤスリーン•バトル』
という題でビデオやディスクが市販されているので、見て頂けたら幸いである。
* * *
いつの間にか、TBSを辞めて十八年も経ってしまった。よく食いつないで来たものだ、と思う。いろんな人に助けられて きたが、老年も近い。これから先は闇である。
並木にも頭を下げなきゃならない現実が迫ってきている。 一昨年の暮、例の『レイプマン』をうるさく見せろと言っていた折、仕方なく私は並木を自宅まで送った直後、ねずみ捕りにつかまってしまった。三十六キロオーバーで、錦糸町送りの罰金三万円、免停一ヵ月。手間のかかる親友を持つと、こうまで割に合わない。
錦糸町で略式裁判を受けたあと、私は駅ビルで、おばさんの易者に占って貰った。
「そのご親友とはくされ縁ですね」
と、おばさんは言った。
「でも、あなたも、まだ花を咲かせますよ。大丈夫」
いまは、このおばさんの言葉を信じて生きている。続々•テレビジョン年譜を書けるといいのだが。
注文応需、誠心、が私のモット—である。
あとがきの前に
──会うは別れのはじめとか、……
新作『帝都物語』をめぐって
映画『帝都物語』をいろんな人たちが断りました。出演をお断りしたい、ということが多かったのです。
おそらく、それほど私は見くびられていたのでしよう。
飽食暖衣の時代に、俳優さんたちは我が世の春を謳歌しています。俳優さんたちを軸に「地球は回っている」と信じているのです。それにつらなるマネージャーの人たちも感ちがいしています。
でも私は、ガリレオのように、
「それでも地球は回る」
と、言いたいのです。
私は五十歲になりました。昔ならば、人生の幕を閉じる坂にさしかかったのです。だから私は、捨てられても仕方のない人種でしよう。
でも『帝都物語』を断った俳優さんたちよ。
あなた達は偉い! そして、眩しい。
コマーシャルで受け、テレビドラマではしゃいで、ほんとうに偉い!
その受け方から言えば、高名でもなく、冷暖房の利いたテレビスタジオでC調にやれない映画を断ったことには、ほんとうに先見の明があります。
でも、私はあなた方の生き方を決して忘れません。観念で、脚本にケチをつけた人のことも忘れません。
断った人がコマーシャルの走狗になっている姿を眩しく思ってます。
私は、ある種の俳優さんに拒絶されたところから『帝都物語』を愛しはじめたのです。何と言っても、EXE以外のプロデューサーなら、私を監督に起用する愚も犯さなかったでしょうから。
私の映画をお断りになったみなさん、とりわけ俳優さんとマネージャーのみなさん、……あなた方がサリエリであり、私はモーツァルトである、という幻想から『帝都物語』をつくりました。
日本には、浮かばれない演出家が存在するということ、わかって下さい。
私は、なまじの機会なら、演出なんて業を捨ててもいい、と考えているものです。
おそらく今年の六月、私は小澤征爾さんと新日フィルの、カール•オルフ『カルミナ•ブラーナ』をやるでしょう。
そのはじめの合唱に
〽不快はひととき、
気まぐれが遊び心に味方して、
貧困も、権力も、
水のように溶かし去る、……
こういう文句があります。
『帝都物語』を共にしえなかったみなさん、ほんとうに縁がなかったのですねえ。この映画を拒絶したみなさん、……あなた方の選択が正しかったのでしょうねえ。祝福します。
私の作る阿呆な映画を、あなた方は、きっと事大主義から笑われるんでしょうねえ。残念です。
さようなら。
もはや、二度とお目にかかることはないでしよう。私のことは放っといて下さい。私も何も申しませんから。
「続・私のテレビジョン年譜」は『夜ごとの円盤』(大和書房・昭和63年刊)から採録した。同書から、「あとがきの前に」と題した一文を併せて紹介する。