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​TBS ドキュメンタリー名作選 より
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TBSグループユニバーシティ(TGU)と東京大学大学院情報学環丹羽美之研究室による共同研究プロジェクトから生まれた「TBS x 東大 テレビの学校」(非売品・2024年1月6日発行)に収録された実相寺昭雄のインタビュー記事を、同プロジェクトの許可を得てここに掲載します。このインタビューは1990年代後半、TBSのCSで放送されていた「名作ドキュメント」のために収録、放送されたものを文章化したものです。

「ウルトラQのおやじ

円谷英二監督(東宝)」

 

 現場でもみんなのおやじ

 

――お近くでご覧になっていて、円谷さんはやはり魅力的な方でしたか?

 

 魅力的だったし、親しみやすかった。人柄がとても素晴らしい人だなというかなあ。本当に、タイトルにありますけれども、あったかいおやじみたいな感じだったですよね。包容力があるというかね。統率力もあるでしょうし。もちろん厳しい一面もあるから、あそこまでの大物になったんでしょうけどね。とにかく大きな人柄にふわあっと人間たちを包み込んでいく、スタッフを包み込んでいくような人だったですね。だからみんな、映画の、ずっと古くからのお付き合いの方も、みんなおやじ、おやじってよんでいたんじゃないですか。

 

――息子さんと対話をするシーンでは、テレビに対するお二人のスタンスの違いが観ていて面白いと思いました。

 

 一さん(円谷監督の息子:編集者注)は、そういう意味では円谷プロダクションのほう、テレビ映画のほうをこれから、当時のこれからっていう意味ですけどね、引っぱっていく第一人者だったですからね。もちろん、TBSの映画部も含めてですね。一さんは残念ながら割と早い時期に亡くなってしまうんですけどね。でもそういう意味じゃ、あそこのスタンスの違いっていうのは一番面白いですよね。やっぱり息子だから親父にずけずけ言える、って事もありますしね。ずいぶん一さんの影響力っていうのは、テレビに目を向かせるって事に関しては大きいんじゃないでしょうか。

 英二さんは映画世代の人間だけれども、やっぱり早くからテレビとかそういうことに興味を持って、テレビでの特撮もの含めた色んなことに目が向いていた人ですよね。最後まで現役でしたからね。英二さんも亡くなるのが早かったし。だから、もっとテレビのことだって新しいこと色々やりたがる人だけど、時間がなかったんだなあ。次から次へとやっぱり作品に入られてたからね。

 

――当時、やはり円谷英二は時代の主役だったんでしょうか?

 

 どうでしょう。うーん。テレビにあっては新しい、つまり特撮ものが出始めた頃ですからね、ウルトラQとか。時代の主役というとなんか漠然としていてよく分からないですけどね。テレビにとっても映画にとっても大きな看板だったことは確かですよね。あれ(「現代の主役」シリーズ:編集者注)は報道で作ってたんですけど、映画部ではあれ一本しか作んなかったんじゃないですかね。

 

――怪獣と円谷さんの対話シーンがユニークですが、なぜ設定したのでしょうか?

 

 思いつきでしょうね。怪獣が話したら面白いだろうなと思って、生みの親と話したら。そう思いついて。断られるだろうと思ったんですけどね。円谷さんの応接間でやったんですけど。あそこだけそうそう、声優さんの声を使ってますね。質問は主に僕がして、縫いぐるみを動かしてもらって。大変な騒ぎだったですけど、円谷さんに答えてもらう。まあそういうこと許してくれたっていうのは、円谷さんの度量の大きさでしょう。あれ(怪獣との対話内容:編集者注)はもう円谷さん独特の哲学ですよね、ずっと貫いていた。あんまりおぞましいだけのものとかね、そういうのは拒否していらっしゃってたからね。汚らしいだけとかね。だからスプラッターみたいなものは円谷さん嫌いだったでしょう。

――子供たちが円谷プロで遊ぶシーンがあります。日頃からあのようなコミュニケーションがその場でなされていたのでしょうか?

 

 駐車場みたいなとこでね。よく遊びに来てましたよね、子供が。そして、子供に縫いぐるみ盗まれたなんてこともあったんじゃないですか。まあ円谷さん、子供好きだったからね。だから、最後に子供のナレーションで終わりますよね。あのナレーションはぶっつけ本番で読んでもらった、たどたどしいんだけど。ファンレターがとにかくいっぱい来てましたからね。ファンレターの中からよって、それを最後の、結論は出さないで、子供の声だけで終わろうとしたのはそういうことなんですけども。

 盗まれた後は、随分なんか警戒が厳重になったんじゃないかと。昔の子供そうだったけど、今はどうなんですかね。あの頃は、だってあれだもん、フィギュアっていうか、人形なんか売ってる時代じゃないですからね。だから本当にああいうとこで子供は確かめたいみたいな事があるからよく来たんじゃないですかね。円谷プロに行けば怪獣がいるよ、なんていうとみんなやっぱり、当時は来ちゃう、っていう感じだったんじゃないですかね。今はそういうからくりも知ってますし。親にねだれば、人形もいっぱいあるから。買えるからね、フィギュアも。ちょっとそういう雰囲気と違うかもしれませんけどね。

 

 チェック体制の緩やかさ

 

――当時は、個人のアイデアを番組に反映させやすい時代だったんでしょうか?

 

 そうですね。今の体制を知らないので、何とも比較はできないんですけども、まあ個人のアイデアを番組に活かそうと思えば、かなり反映することはできましたよね。だから今よりか、もう少し演出なんかのほうは目立ったかもしれませんね、昔のほうが。どっちがいいかっていうことじゃなくってね。それおをチェックする体制とかそういうものも比較的緩やかだったことは確かだと思いますね。例えば、部長に見せる台本と実際に撮る台本と別のもの作ったりなんかしてね。あんまりいいことじゃないですけど。

 特にドラマが生放送の頃なんていうのは、やったもの勝ちという気持ちで。僕は多少そういう気持ちありましたね。「現代の主役」みたいな、オールフィルムのドキュメントはね、そうはいかないですけどね。制作してる段階でどんどん放映されていくっていうわけじゃないですからね。でもドラマの場合はまだまだ、芸術祭以外は昭和37年、38年頃でも、丸ごとVTRで撮るから。インサートVTRっていうのは途中の何シーンかをVTRにとって、生放送のスタジオでやってるのに乗せていくかという風な形ですから。まだゲリラ的にそういうことをやれるっていう要素はあったんですね。東京オリンピックの頃にわあっと、ビデオとかそういうものが進化したから。その辺からだんだん完全なパッケージで、一回チェックすることになっていったから、スポンサーもわが家の家風にあわんみたいなことになるとやっぱり色々厳しいことを言いだしたんじゃないですかね。

 

 つかめない夜空の星

 

 まだ僕らがやってた頃というのはテレビっていうのはつかみやすいもんだったですけどね。まだどんなものがテレビかっていう。今テレビジョンの画面から出てくるもの、テレビ局が放送するものだけがテレビって感覚があんまりないでしょ。ゲームも入ってくるし、それこそビデオも入ってくるし。それとチャンネルの操作って膨大になってますよね。だから全体に目を通す個人というのは誰もいないわけで。ほんの一部分しか見られないって言うかな。自分が見てる部分はほんの一部分ですから、個的な体験で自分はこう思うっていうことしか言えないと思うんですよね。

 そういう意味じゃ、はっきり言って僕はテレビを見なくなったってことはありますね。自分の個的な体験を言えば。昔はテレビ漬けだったけどね。その頃は、もちろん、朝から晩まで赤坂に泊まり込みで、テレビに漬かっていたわけですからね。そういう僕の生活の中のリズムをまずテレビが作ってたとすればね。テレビは好きですよ、今でもね。好きだけれども、最近の僕はテレビを見るって言う事がほとんどなくなってしまったっていうかな。だからテレビが自分の生活のリズムの中で肝心なものじゃなくなったっていうことはありますね。

 でもテレビを使うっていう、もっと電話とかそういう日常的な家庭の機器と同じようにテレビを使うってことは、昔じゃ考えられないぐらいあるということですよね。だから逆に言えば、僕らは黎明に時代の、開局10年もまだ経っていないころですからね、なにしろ正式な入社試験があった2度目ぐらいになるんじゃないですか。テレビというのはお茶の間にもそんなね、全部の家庭、全国の家庭にあったわけじゃないし、まだ街頭テレビの名残もありましたからね。そういう時代ですから、テレビは掴みやすかったってことがあります。今はどう変わったかっていうことは、自分じゃまったくわかんない中、夜空の星を見ているみたいな感じですよね。

(編集:鳥海希世子)

日記から

​「現代の主役」の準備をはじめた当時の日記(1966年) から

五月十九日(木)

   現代の主役の準備。まったく、バラバラなものになりそうである。はっきりわかっていることは、対象の円谷英二氏には殆ど手をつけないこと。何かの仕事を再現して貰うことは止めにすること。従って記念写真のような、訳す素材を与え た作り方はしないこと。何かやって下さい。何か喋ってください、といったところで、どうにかなる訳がないのだから。ある程度、目先を変えた絵でつなぐ、ということになるだろう。

   疲れている、今日は。行楽疲れに加えて、昨夜の麻雀の故で。それでも、麻雀をしなければ良かった、というような反省をすることを、私は二度としない。つまりそんな感覚が小市民的なのだ。すべてをのみ込んでしまう感覚でありたい。 計画ということは、革命的なことではないのじゃないか。それは、ある客観的なものの集約だけに、余計、革命后の日常のような響きがある。 

五月二十日(金)

   久し振りに構成も任された現代の主役の仕事。 この二年間の空白の故か、緊張した精神の高揚が、どうも構成にあふれない。油がきれているという感じなのだろうか。何とも、自分なりの対象へのきり込みがまだるっこしい。構成にテーマが ない。方法がない。この儘、つぎはぎだらけの、 誤魔化しで人目に触れてしまうのか、と思うと、 聊かぞっとする。いやな感じ。危険にみち溢れた というものがない。しかし、又、余計な他人の口 を気にしすぎる嫌いもある。一切は己れの己れへ の疑いである筈だ。他人を気にすることも変化を恐れぬ姿勢の積極的な方法でありだ。そう願う。 一体、欠けているのは何なのか。真に、この素材 をもって…… いやそれより、今、何を表現したい のか、という、こころの中でのうねりが、ひとつ も高鳴らないのだ。考えてみれば、この苦しみは 自分の欠落そのものであるような気がする。扨、 どういうイメエジとなって結実するか、ある過程 となるか。思考のステロを一歩も、今の所は出て いない。これには飽れ(ママ)果てる。 

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