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実相寺昭雄の散歩道

 実相寺昭雄監督は歩くのが大好きだった。好きだから健脚なのか、健脚ゆえに散歩を好んだのか、ともかくよく歩いた。

 昭和十二年生まれという世代にしては長い脚に、なぜかくるぶしの出る短いズボンを穿き、いつも早足で歩いていた。道すがら、由緒ある建築物があっさりと取り壊されたり、記憶のよすがとなる町名が失われたりするさまを、ときに嘆き、​あるいは罵っていた。大切な場所や気になった風景をたくさんスケッチに残した。

 ここではそんな実相寺昭雄の散歩道を折にふれて辿ってみようと思う。

(1)万世橋

旧万世橋駅跡。後に見えるのが交通博物館の跡地に建てられたビル

​電車少年の実相寺にとって万世橋は格別に思い出深い場所だ。

上は昭和61年7月20日発行の「古代報」(コダイの広報紙・第2号)の

コラム。

単行本「昭和電車少年」では1章を割いてさらに詳しく述べている。

実相寺は万世橋際にあった交通博物館(旧名鉄道博物館)の閉館

(2006年5月)を見届けてから半年後にこの世を去った。

​存命であればその跡地がどうなったか見たかっただろうと思い、生誕80年(2017年)の正月に歩いてみた 。

​ちなみに万世橋から北へ少し歩けば、足繁く通ったフィギュア・ショップが並ぶ秋葉原だ 

『閉館ちょうど一年前だろうか。交通博物館では学芸員たちの努力による企画展「東京のターミナル形成史」が開催されていた。わたしもその展示会を訪れ、“ターミナルの運命”というものに目を見張った。博物館というのは派手な常設物もいいものだが、こういった企画研究を進める人たちの発表も忘れてはならないだろう。交通博物館でも、数々の小規模ながらすばらしい企画展があった。それらは、博物館を支える背骨のようなものである。そうした企画展はこれからどうなるのだろう。今わたしは、それが大いに気がかりである。その企画展だけで、大宮まで人を誘うことは難しい。できれば、万世橋の高架橋アーチの下に、企画展用スペースぐらいは残し、「万世橋分室」として、骨の部分を見せてほしい。それに、膨大な写真、図書資料などの閲覧、貸し出し室も作ってもらえないだろうか。さいたままでものを借りに行くのは大変だろう、と思われるからだ。

 いま、こんなことを空想して、わたしは交通博物館最後の日を、迎えようとしている。』

ちくま文庫版「昭和電車少年」(2008年5月10日発行)に掲載された〈ブンコのおまけ〉より…… 初出は2006年5月7日付の毎日新聞

​実相寺監督は仕事での移動にも出来る限り電車に乗る楽しみを見出そうとしていた。大阪で打合せをした帰りには、新幹線の切符を買おうとした筆者に「ただ帰るのはつまらないでしょ」といい、名古屋まで近鉄特急の旅になったこともある。

万世橋駅跡。後ろに見えるのが交通博物館跡地に建てられたビル。  

(2)玉電・砧線跡

『玉電が廃止されたのは昭和44年(1969)の初夏で、ついこの間だと思っていたが、もう三十年も経っていることにおどろく。とりわけ、円谷プロで世田谷区大蔵にある東宝ビルトを拠点に、「ウルトラマン」や「セブン」「怪奇大作戦」といった特撮ものを作っていたころには、ちかくの鎌田、岡本、玉川あたりはオープンセットの延長のようなもので、絶好の撮影ポイントが点在していた界隈である。もちろん、砧線にも親しんでいたが、残念ながら電車そのものを撮影したことはない。廃止されると知っていたら、映像に残しておいたものを、な〜んて呟いても後の祭り。ちなみに「怪奇大作戦・死神の子守唄」では、山場の一つを高島屋の工事現場で夜間ロケしている。その脇をまだ、砧線は中耕地へ、吉沢へと走っていたのである。

「昭和電車少年」“玉電のまぼろしを発掘する紀行” 

*初出「東京人」1999年9月号  

実相寺昭雄のスケッチ
砧線跡の遊歩道
工事中の高島屋で怪奇大作戦の撮影をしたというが… 

『通学に利用していた電車は、現在ただ一系統だけ残った都電荒川線である。元々は私鉄の王子電車だったのだが、昭和十七年に、城東電車共々市電に併合され、32系統になっていた。

 滝野川から終点早稲田まで乗って、そこから14系統の州崎行きに乗り換え、飯田町一丁目で降りるのが毎日の通学経路だった。

    ちくま文庫版「昭和電車少年」“私的暁星史”より 

​幼少期を瀧野川区(現在の北区)で過ごした実相寺にとって、王子電車を前身とする荒川線は通学にも利用した馴染み深い

路線だった。

飛鳥山は格好の遊び場で、煙を吐いて走る東北線の汽車や路面電車を飽かず眺めたという。

飛鳥山公園に置かれた都電。昭和24年以降の製造なので、通学時に乗った車両とは型式が異なる。  

​西ヶ原四丁目(旧瀧野川)停留所付近を

走る都電荒川線

(3)滝野川〜飛鳥山

『東京の家は瀧野川区西ヶ原町五七一番地にあった。

 もともとは大分の臼杵から出奔した祖父が、曾祖父の隠居所として建てたものである。

​ 實相寺家の名前は、九州は別府にある實相寺山から来ている。古戦場でもある。戦功によりその地を賜り、領主大友氏、あるいは稲葉氏から山の名を名乗れと言われたらしい、と親に聞かされた。』           ちくま文庫版「昭和電車少年」“私的暁星史”より 

早稲田方面から来た都電荒川線は、画面左の

飛鳥山公園前で専用軌道から道路へ出る。

飛鳥山停留所 1994年 撮影

(4)鎌倉  

『鎌倉には親戚の家が何軒かあった。終戦後、高校のころまで毎年、夏になると材木座海岸ちかくにある親戚の家に居留していた。海パン一つで海岸に行けたからである。

​ わたしは幼いころから海辺の街で育っていた。だが、海が近いからといって、泳ぎが得意だったわけではない。星降るような当時の鎌倉の夜が好きだったのである。湘南族のはしりのような、同じ学校の先輩たちもいた。彼らの尻につらなって、海の気を吸うのがたまらなかった。

   ちくま文庫版「昭和電車少年」“ボロ電の大変身・江ノ電”より 

材木座海岸

実相寺昭雄は1984年の冬、遠くへ行きたい「実朝 夢や夢 鎌倉」を撮るために鎌倉を訪れている。

この年は、何年ぶりかでテレビマンユニオンの『遠くへ行きたい』をやった年でもある。

 ひとつは八月、ひとつは十二月。神田と鎌倉という近場で済ませた。タイトルは忘れてしまった。ADをやってくれた碓井広義という塩尻育ちの男が、段取りから後処理までやってくれるので、私はおんぶするだけだった。

   続・私のテレビジョン年譜 昭和59年の項 より 

「遠くへ行きたい」のロケ中に鎌倉から出した絵手紙 青春期の記憶がつまった街を歩くのは本当に楽しかったのだろう。

かまくら

鶴岡 あふぎてみれば 嶺の松 

こずゑはるかに 雪ぞつもれる … 源実朝

2010年の嵐で倒れた鶴岡八幡宮の大銀杏。

源実朝はこの付近で暗殺されたという。

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